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    中国通史で辿る名言・故事探訪(晋の悼公と祁奚)

     「祁奚、仇を奨む」

                        春秋時代

     紀元前572年、晋では厲公(27代)崩じた後、姫子周が即位した。

     これが悼公である。

     重鎮の欒書らが、23代襄公の曾孫で周都で勉学中の姫子周を迎え

    入れて即位させたのである。悼公の父は恵伯談という。

     その後 欒書は隠退し正卿の座を韓厥に譲ったが、欒氏一族の権勢

    は次の平公(前557年即位)の初期まで衰えることは無かった。

     悼公は十四歳で即位したが、周都で勉学に励んだだけに凡庸では

    なかったと謂われる。

     賢者を任用し、軍制と軍政を改革したり、対外的には諸侯と会盟したり

    して、晋の最後の名君と称えられたが、秦や楚との戦いが絶えず、その

    戦果は芳しくなかった。

     軍事改革では、「軍尉の官」を創設した。

     中軍の尉に大夫の祁奚(きけい。字は黄羊)をその佐に大夫の羊舌職

    を、司馬には魏絳を起用した。

     上軍及び下軍は省略する。

     晋は逸早く三軍を編成した大国であったが、その中心となる中軍の将

    は全軍の総司令官となる最重要職であった。

     将を補佐するのが佐将であり、佐将を補佐するのが御(御者)である。

     新しく設置された「軍尉の官」は、従来の大夫・卿らの御の管理の他に

    軍警察的な役目も担うようになり、その指揮官は人格識見に優れかつ

    果敢さも要求された。

     悼公のお眼鏡にかなったのが祁奚(きけい)である。

     「祁奚、仇を奨む」

     公平無私な心を称える言葉。

     三年間 「軍尉の官」を務めた祁奚は、引退を願い出た。

     祁奚はその時 悼公に問われた。

     「後任は誰が良いか」と。

     祁奚は応えた。

     「解弧(孤)が良いと存じます」と。

     祁奚は正直な人物で知られ、この解弧も正直な人物であったが、この

    二人はどういう訳か折り合いが悪かったのである。

     お互いに憎み合うことまるで仇敵のような関係にあったので、悼公も

    そのことを薄々は知っていたようであった。

     だから、まさか解弧を推すとは思ってもいなかったが、悼公は何も言わ

    ず、人事は内定した。

     ところが、任命直前になって解弧が死んでしまったのである。

     そこで再び、悼公は祁奚に後任を問うた。

     「誰が良いか」と。

     祁奚は応えて、

     「午が宜しいでしょう」と。

     午は則ち、祁奚の子であった。

     さらに頃を同じくして、副尉の羊舌職が死んだ。

     悼公は、「後任は誰がよいか」と祁奚に尋ねた。

     祁奚は、「彼の倅の赤は、如何ですか」と。

     そこで祁午は中軍の尉に、用舌赤がその佐(副尉)に任じた。

     当時の有識者は祁奚を評して言う

     「これは良い人を挙げたもの。

     仇を推して諂(へつら)いとならず、子を立てて身贔屓(みびいき)と

    ならず、仲間から用いて我が儘とならないとは」と。

                  「春秋左氏伝 成公十八年、襄公三年」



     
     

     

    テーマ : 中国古典・名言
    ジャンル : 学問・文化・芸術

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    中国通史で辿る名言・故事探訪(物の損得勘定)

     「物 之を損して益すること有り」

      
                      春秋時代

     天下には三つの危いことがある。

     人徳少なくして君の寵愛の多きは、その一。

     才能低くして地位の高きにおることは、その二。

     自身の大功無くして高禄を受けることは、その三。

     故に物 之を損して益すること有り、之を益して損すること有り。

     何を以って、その然るやを知るや。

     昔 楚の荘王は覇者たる晋と河雍(黄河と雍水)で戦い、勝利して

    覇権を獲得した。

     そして戦後 その戦功として孫叔敖(しゅくごう)に封地を与えようと

    したが、彼は頑なな辞退して受けなかった。

     孫叔敖は晩年に病に罹り、その死に際に我が子に遺訓した。

     「我もし死せば、王 必ず女(=汝)を封ぜん。

     女 必ず肥饒の地を譲りて(豊穣の地を辞退し)、沙石の間(砂や石ころ

    ばかりの荒れ地)の有寝の丘なる者(地名のこと)を受けよ。

     其の地は确石(かくせき。石の多いやせ地)にして、名(地名)醜くし。

     荊人は鬼(楚の人は鬼神を畏れ)、越人は禨(越人は祟りを信じ)に

    して、人の之(有寝の丘)を利すること莫けん(欲する者はいない)」、

    と。 

     孫叔敖の死後、荘王は果たして、その子に肥饒の地を以って封じよう

    としたが、その子は辞して、改めて不毛の地である有寝の丘を請い願った。

     楚の「制」として、功臣にはその二世に限って襲封を認めるという決まり

    があったが、上記の理由から孫叔敖の子孫のみ 「制の例外」が認められ

    てきた。

     此れ所謂 之を損して益するものなり。


     またその昔 晋の厲公(27代)、南の方 楚を伐ち、

    西の方 秦を伐ち、北の方 燕を伐つ。

     兵 天下に横行して綣(かが)むところなく、威は四方を服して詘する

    ところなく、遂に諸侯を嘉陵に合わす(会盟する)。

     気充ち、志驕り、淫侈(淫乱奢侈)度無く、万民暴虐し、内に輔弼の臣

    無く、外に諸侯の援けなく、大臣を戮殺し、導諛(佞臣)を親近す。

     明年(翌年) 匠麗氏に出遊するや、欒書・中行偃、脅かして之を幽す。

     諸侯のこれを救う莫く、百姓の之を悲しむ無莫く、三月にして死す。

     それ戦えば勝ち攻むれば取り、地広くして名尊きは、是れ天下の願う

    ところなり。

     然れども、身死し、国亡ぶに及ぶ。

     此れ所謂 之を益して損する者なり」、と。

                       「淮南子 人間訓」



     

     
      

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    中国通史で辿る名言・故事探訪(韓非子・ 十過)

     「小忠を行わせるは、則ち大忠の賊なり」


                        春秋時代

      部下の真心からの誠実な行為を大いに良しとして、無闇矢鱈に赦すと、

     それが時には自らの大いなる誠実を妨げる一因ともなることがある。

      春秋時代の楚の司馬・子反の側近である穀陽は、戦陣にあって

     主人の喉の渇きを見て、水ではなく酒を差し出したが、それは生来 

     酒好きな主を思っての誠実な行為であった。

      ところがその後 子反は共王の緊急の呼び出しにも心疾を理由として

     応じなかった。

      そこで共王は自ら出向いたが、彼の帷幄に入るや酒の匂いを嗅いだ

     のですぐさま本国に向けて帰還してしまった。

      曰く、
      
      「今日の戦い 不穀(貴人の自称)自ら傷つき、恃む所の者は司馬

     なり。

      而るに司馬 また酔うこと此の如し。これ楚国の社稷(国家)を忘れて

     吾が衆(人民)を恤(あわれ)まざるなり。

      不穀 復た戦うこと無からん」と。

      ここに於いて師(軍旅)を還して去り、司馬・子反を斬りて以って

     大戮と為す。

      故に豎穀陽の酒を勧むるは、以って子反に讎(あだ)せんとするに

     非ず。

      其の心 これに忠愛にして、而も適々(たまたま)以ってこれを殺す

     に足る。

      (=その心からの忠愛が反って子反を殺す羽目となり、結果的には

       子反の大きな誠実を妨げたことになった。)

      故に曰く、

      「小忠を行わせるは、則ち大忠の賊なり」と。

                      「韓非子  十過」


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    中国通史で辿る名言・故事探訪(晋の趙氏族滅の危機)

      「死するは易く、孤を立つるは難きのみ」

                        春秋時代

      死ぬことはた易いが、孤児を守り抜きその身を立てることは至難の業

     だとの意。

      晋の正卿であったが今は亡き趙盾(ちょうとん)の友人である

     程嬰(えい)が、趙盾の孫を政敵の手から守るために食客・公孫杵臼

     (しょきゅう)とその善後策を相談した時に語った言葉である。

      いつしか晋では、二十六代景公(姫拠)の時代になっていた。

        ※ 在位期間:前599年~前581年

      大夫で司寇の屠岸賈は諸将を率いて、今は亡き趙盾の君主弑殺事件

     の事を問題にして、趙盾の子の趙朔やその一族を攻めて、全盛を誇って

     いたその一族を全滅させてしまった。

      この時 趙朔の妻は身重であったが、公孫杵臼や程嬰に援けられ、上手

     く難を逃れて男児を産んだ。この子が後の趙武である。

      ところがその内 屠岸賈の知る所となり、厳しい捜索が開始された。

      公孫杵臼が程嬰に尋ねた、

      「孤児を守り立てることと死ぬのとでは、どちらが難しい事であろう

     か」と。

      程嬰は、

      「むろん死するは易く、孤を立つるは難きのみ」と。

      公孫杵臼は語りかけて、

      「では私は易しい方を受け持つから、貴方は困難な役割を果たして

     もらいたい」と。

      かくして密約のなった二人は山中に隠れ、やがて程嬰は打ち合わせ

     の手順通り、公孫杵臼の居場所を官憲に密告した。

      公孫杵臼は捜索の官憲を欺くために、わざと他人の子を隠していた。

      やがて追及の手が伸び、公孫杵臼はその子と与に殺されてしまったが、

     程嬰は趙武を上手く隠し通すことが出来た。

      そしてそれから十五年後のことになるが、韓氏の後援により趙武は

     復権の日を迎えることが出来る。

      程嬰は趙武が成人したある日のこと、

      「あの世の公孫杵臼に報告をしないといけません。」

      と言って自ら命を断ってしまった。

                         「史記 趙世家」

      

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    中国通史で辿る名言・故事探訪(春秋五大会戦 その4)

     「鞍の戦い」

                        春秋時代

      紀元前589年、晋(26代景公)が魯・衛・曹の連合軍を率いて、

     斉軍を鞍の地に破る。これを「鞍の戦い」といい、春秋五大会戦・

     その四に数えられる。

      楚(24代共王)と晋が互いに相手を凌駕することが出来ず、覇権を

     確立することが出来ずにいた間に、中原の東端にある斉の23代頃公

     が、嘗ての勢いを取り戻しつつあった。

      1 「前哨戦」

      前589年春、斉の頃公は自ら軍を率いて、魯(22代成公)の北境に

     攻め込んだ。

      だがその年の夏四月 斉の隙を衝いて魯を救援するため衛の穆公

     は、上卿・孫良夫らに命じて、斉の地へ侵入を目論んで派兵した。

      ところが斉軍は、魯軍と決着を付けての帰還の途次 衛の領土の

     新築においてこの衛軍と遭遇し、衛軍を敗走させた。

      この時 石稷(せきしょく)は孫良夫に謂った、

      「子(し。貴方)は一国の正卿です。子を失えば恥になります。

      子が将士を率いて退却するなら、吾はここに踏み止まります」と。

      さらに軍中に布告して回った、

      「もうすぐ援軍が来るぞ」と。

      衛の軍中の様子を察知して、斉軍は進軍を停止して鞫居(きくきょ)

     に宿営した。

      この後 新築の仲叔于奚(うけい)が孫良夫の救援に駆けつけて来た

     ので、孫良夫らは辛うじて脱出することが出来た。

      斉に敗れて衛の国都に戻った孫良夫は、城門には入らず、その足で

     直に晋へ援軍を請いに行った。

      同じ頃 斉に敗れた魯も、臧孫(ぞうそん)宣叔を使者に立てて晋へ

     援軍を要請に来ていた。

      彼らは共に、晋の実力者である郤克(献子)に口添えを依頼した。

      晋侯(景公)は七百乗の出動を許可したが、郤克は、

      「この数は城濮の戦いの折の兵車数であり、先君(文公)の明察、

     先大夫(先軫や弧偃ら)の敏捷があらばこそ勝てたものです。

      我は先大夫らに比べれば、その召使いにも及びません。

      八百乗をお願いします」と懇願して許された。

      かくして中軍の将は郤克、その佐に士燮(ししょう。范文子とも)、

     下軍の将に欒書(らんしょ)、司馬に韓厥が任ぜられた。

      魯は季文子(季孫行父)を将として派遣した。

     2 「序盤戦」

      夏六月壬申(九 )の日、晋・魯・衛の連合軍は、斉の地の

     靡笄(びけい)山に駒を進めた。

      翌日の朝、両軍は鞍の地に対陣した。

      斉の高固が突然、晋の陣地に兵車を乗入れ晋兵に大石を投げつけ、

     倒れた兵を捕えて車に引き上げ、さらに付近にあった桑の木を根元から

     引き抜いて車に括り付けて悠々と自軍の陣地に馳せ戻り、連合軍の

     ど肝を抜いた。

     3 決戦

      斉公の指揮車には邴夏(へいか)が御し、逢丑父(ほうちゅうほ)が

     車右を務めた。

      その一方では、晋の郤克の指揮車では解張が御し、鄭丘緩が車右

     を務めた。

      斉公は、

      「余、姑(しばら)く此れを殲滅して朝食せん」と言って、馬に鎧も着せず

     に鞭をくれた。

      かくして戦端が開かれるや、晋の郤克は矢傷を受け、その流れる血が

     足の履を浸した。

      だが郤克は気力を振り絞って、鼓を打ち続けた。

      師の耳目は吾が鼓旗にあり、進退これに従う。

      (=軍の象徴は軍鼓と旌旗にあり、攻撃するも退却するも

       それ次第である。)

        ※ 旌旗とは、大将軍旗をいう。

      戦乱が続く中、郤克の気力もようやく衰えようとした。そして弱音を

     吐いて言う、

      「吾、病めり」と。

      だが御車の解張が励ました。

      「戦闘が始まってから、私は肘や手に矢を受け、それをへし折って馬

     を御しておりますぞ。兵車の左輪は私の血で真っ赤に染まっております

     が、何条以って病めりと言えましょうや。

      御大将、しっかり耐えて下さい」と。

      また車右の鄭丘緩は、

      「戦闘が始まってから、急坂にさしかかる度に私は車を降りて、後押し

     してまいりましたが、貴方はその事にお気づきではなかった。

      それも道理で、そんな酷い状態だったのですね」と、慰撫した。

      ここで解張は更に力強く励ました。

      「師(軍旅)の耳目は、吾が鼓旗に在り。進退これに従う。

      御大将が一人、この指揮車で頑張っておられれば勝利は我がもの、

     それなのに、何ぞそれ病めるからと言って君の大事を敗れましょうや。

      甲(よろい)を着け武器を手にしたからには、死はもとより覚悟のはず。

      病むといえども未だ死ぬ事はありません。

      確り指揮を執ってください」と言って、手綱を左手だけで持ち、右手で

     郤克から撥(ばち)を受け取り、烈しく鼓を叩いた。

      ところが抑えが十分に利かず、その為 馬は奔走し、全軍は一丸と

     なってその後に続いた。

      それまで優勢に戦いを進めていた斉軍は、晋軍のこの思わぬ猛攻に

     堪らず敗走し、攻守が逆転してしまった。

     4 韓厥と頃公の奇跡の運命

      この追撃戦で司馬の韓厥は、斉公の指揮車の後を追った。

      この時、韓厥は車の左にある指揮官席に立たず、自ら御車となり中央

     で手綱を握っていた。

      と謂うのも、開戦前夜 父が夢枕に現れ、

      「明日は、兵車の左右に立ってはならぬぞ」、とのお告げがあった

     からであった。

      追われる斉公の御車・邴夏が言った、

      「あの御車を狙うべし。君子ですぞ」と。

      しかし斉公は、

      「いや、君子と知って矢を射かけるのは如何にも失礼である」、と

     言って、車左を射倒し、続いて車右も射倒した。

      左右の勇士を失った韓厥の兵車に、兵車を失った晋の大夫の

     綦母張(きむちょう)が追い縋って車右の席に乗り移ろうとした。

      しかし韓厥は肘で押しのけた。ところが更に車右の席に着こうと

     するも、やはり肘で押しのけ、自分の後ろの余地にしか乗せなかった。

      そして、ずり落ちそうになった左右の士の遺骸を落ちないように引き

     戻した。

      そのわずかの隙に、追われる斉公は車右の逢丑父と席を入れ替えた。

      やがて華泉に近づいたところで、指揮車の副馬が木に引っかかって、

     動きが取れなくなった。

      逢丑父は昨夜、指揮車の中で寝た時、蛇に咬まれて負傷していたので、

     指揮車を後から押すことも出来なかったので、とうとう韓厥に追い

     つかれてしまった。

      韓厥は斉公の馬前に進み寄り、その手綱を取り、再拝稽首(頓首)

     し、また持参した盃に玉を添え斉公に捧げて、

      「我が君の出兵の目的は、衛・魯の救援に在って、斉の地に深入り

     してはならん、と。

      しかし軍を進めるうちに、不幸にして貴軍に出くわしました。

      逃げ隠れもならず、故意に避けるのは主君の名を辱め且つ

     君に対しても無礼かと存じあげ、敢えて戈を交えさせて戴きました。

      失礼の段は御許しいただき、この私がお供いたしますのでお越し

     いただきたい」と、言上した。

      この時、斉公に成りすましていた逢丑父は何食わぬ顔で、

      「華泉に行って水を飲んで来い」と、傍らの斉公に命じた。

      車を降りた斉公は、鄭周父が御を務め、宛茷(えんはい)が車右を

     務める副官車に乗り移って難を逃れた。

      その後も斉軍は追撃を受けて、華不注山を三周して、ようやく逃げ

     帰った。

     君に代わりて患に任ずる者あることなからん

       (=我が君に代わって災難を引き受ける者、即ち主君の身代わり

        となる者はいなくなるだろう。)

       斉君の身代わりとなった逢丑父は、韓厥により郤克の下に連行

      された。

       郤克は彼を殺戮しようとしたが、逢丑父は大声で叫んで言った、

       「今より後 その君に代わりて患に任ずる者(君侯の身代わりとなる

      者)あることなからんや。

       ここに一あるに、当に戮することを為さんとするか」と。

       この言葉に郤克は胸を打たれた。

       「人 死を以ってその君を免れしむるを憚らざるに、

       (=勇士が吾が身を忘れてまで敢えてその主君を助けようとした

        のに)

        吾 これを戮するは不祥なり。これを赦して以って君に仕える者を

       勧めん」と言って、処刑を取り止めた。

        この戦いで晋は斉の国都・臨淄(りんし)近くまで攻め込んだが、結局

       魯と衛の仲裁で和平協定を結ぶことになった。

                      「春秋左氏伝 成公二年」



      

               

      
      



       

       

      

      

    テーマ : 戦記
    ジャンル : 学問・文化・芸術

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    中国通史で辿る名言・故事探訪(老子)

     「老子綵衣」

                         戦国時代

      親孝行な行いを言う。

      綵衣(さいえ)という様々な色模様の衣服を着て、親を楽しませる

     の意。

      「戯綵娯親」とも言う。

      七十才の老萊子が、或る日のこと更に高齢の両親の面前において、

     子供の着る綵衣を着て、両親の膝元で戯れたり子供の泣き真似を

     したと言う故事。

      老萊子は、春秋時代の楚の人と謂われる。

      この老萊子は、孝子の詩撰である「二十四孝」の一人でもある。

      老萊子は若い時から親に孝行であったが、親の食事には特に気配り

     したと謂われる。

      老萊子は自分の年齢も既に七十才になっていたが、父母はなお存命

     であった。

      そんな親に自分の歳を感じさせないため、親に前では子供の着るよう

     な様々な色模様の衣服を着て戯れて見せたり、食事を奉げて親のいる

     堂に運ぶ時には、わざと足を躓きうつ伏せに倒れては子供の泣き真似

     をしたと言う。

      その行いはまた、親自身にも寄る年波による体の衰えを忘れさせよう

     との老萊子の真心の為せる業であった。

               元代の郭居敬撰  「全相二十四孝詩撰」

        ♪   老萊子

            戯舞嬌癡(=痴)を学ぶ

              戯舞嬌癡:愛らしいあどけない戯れの舞。 

            春風綵衣を動かす

            双親口を開いて笑う

            喜色庭闈(ていい)に満つ 

              庭闈:親のいる部屋で奥座敷。

         ※ この老萊子は老子の師であるとか、老子その人 

           或いは老子の流れをくむ者とも謂われるが、その

           実在性は明らかでない。

         

       

    テーマ : 詩経・漢詩・詩賦等
    ジャンル : 学問・文化・芸術

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    プロフィール

    tyouseimaru

    Author:tyouseimaru
    出身地は四国八十八か所参りの発心の阿波、大阪を終の棲家とする。
    歴史好きで、城郭・神社仏閣・歴史遺跡巡りが趣味となる。
    歴史小説や時代小説を好み、往年の著名な時代小説の類は概ね完読と、自負している。

    自薦
    自著「中国通史で辿る名言・故事探訪」の 上・中・下の3巻を、 近い内に「電子書籍」での出版を予定しています。 今年一年間は、さらに工夫を加えるなどして、補記訂正などの校正を第一義としています。       
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