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    中国通史で辿る名言・故事探訪(晋の連合軍対斉)

     「平陰の戦い」          

                      春秋時代

     晋(29代平公)・魯・鄭など11ヵ国連合軍対斉(24代霊公)の戦い。

     魯の襄公十八年(前555)秋、斉の霊公は魯の北境を侵した。

     1 「中行偃の夢見」

     晋の卿大夫・中行献子(荀偃)はおりしも斉を伐つ夢を見た。

     かつて欒書と結託し、前573年に程滑を使嗾して君たる厲公(27代)

    を弑殺し、君の後釜には晋の血筋をひく孫秀を周都から迎え入れて

    即位させたことがあったが、この夢中でその厲公に我が首を切り落とされ

    て、我が首を拾って走っている内に梗陽の巫皐(ふこう)に出会うという夢

    であった。

     夢 覚めた後、その巫皐に話をすると、巫皐も同じ夢を見たという。

     そして巫皐は言った、

     「今年 貴方は必ず死ぬでしょう。だが、若し東方で事が起きたならば、

    思う通りになさることが出来るでしょう」と。

     晋の平公三年(前555年)冬十月、晋は魯・宋・衛・鄭・曹・莒などの

    弱小国の十一ヵ国からなる連合軍を率いて東征し、斉の霊公と覇権を

    懸けて戦った。

     斉の霊公は、晋君に取って代わり天下の盟主にならんと並々ならぬ野望

    を燃やし、蚤に富国強兵に努め虎視眈々と狙っていたのである。

     しかし如何せん、斉一カ国では力に限りがあり、東征した晋の連合軍は

    圧倒的兵力で斉軍を攻め立てた。

    2 「平陰に禦(ふせ)ぎ、防門に塹(ほり)して、之を広里に守る」

     斉の霊公は晋の連合軍の侵攻を濟(済)水南岸の平陰で禦(防御)ぎ、

    防門では幅一里の塹壕を作り、広里で守ろうとした。

       ※ 前漢時代には、一里は405メートルであったのだが、

          この時代は ? 。

     この時 しかし宦官の側近・夙沙衛が斉公に進言した、

     「戦う力が無いのなら、ただ広里の守りだけを固めるとよいでしょう」と。

     だが斉公は聞かず、対する敵連合軍は防門に猛攻を仕掛けて、斉

    では多くの兵士が戦死した。

     晋の范宣子(士匃)が、普段 親しくしていた斉の析(き)文子に同盟国の

    魯と莒が間もなく斉に猛攻を加えるだろうと忠告し、早急の善処を採られ

    たしと促した。

     そこで析文子が斉公にその事を知らせると、斉公は心配をし始めた。

     晏嬰(あんえい)は言う、

     「もとより勇気の無いお方だ。そこへもってきて、そんな話を聞かされた。

    長いことは無いだろう」と。

     晋軍の方では、山や谷を埋め尽くして大軍を偽装していた。そんな有様

    を斉公は巫山に登って眺望したものだから、一人先に逃げ帰ってしまい、

    三日の闇夜には斉の全軍は撤収した。

     四日の始め 晋軍は平陰に入り猶も斉軍に迫った。

     斉軍では夙沙衛が殿を務め、細路に車を並べ立てて晋軍の進撃の 

    防護柵代わりにした。

     斉の殖綽・郭最の二人は、

     「子(宦官の夙沙衛)が国軍の殿を務めたとあっては、斉の恥になる。

     先に行かれよ」と言ったので、

     夙沙衛は腹を立てて、狭い径で馬を殺して径を塞いでしまった。

     その後 斉の郭最らが殿を代わったので、殖綽は晋の州綽に弓で両肩

    を射られ、郭最も晋の中軍の捕虜となり、二人とも戦車に括りつけられて、

    太鼓の下に座らされた。

     十二月二十五日、晋軍は斉の都・臨淄(りんし)に攻め込み、あちこちの

    城壁の一部を破壊するまでに至った。

     斉公は既に馬を車に取り付けて郵棠(ゆうどう)に逃げようとしたところ、

    太子光と郭栄が必死に諌めて、ようやく斉公も思い止まった。

    3 楚の参戦

     その後も晋軍の大夫たちは、斉の各地を荒らしまわり、十一日には

    東は濰(い)、南は沂(き)に至る。

     事態がここまで進むと、晋の同盟国軍であった鄭では、国の留守を

    守っていた大夫・子孔が、晋の大夫らの横暴を畏れて晋に背き楚に誼を

    通じようと画策した。

     楚の令尹・子庚(公子午)は心ならずも楚王の意を汲んで汾(ふん)に

    於いて勢揃いをした。

     一方では鄭の留守を守っていた子孔は、同じく守りに就いていた子展

    らが彼の考えを見破り城郭の構えを十分にして守ったので、容易に楚の

    軍に加わる機会が無かった。

     また斉での捷報が晋の平公の元に届いた時、同盟国軍の鄭国に楚軍

    が侵攻し始めたという急報があり、連合軍は戦場から撤退した。

     その後 楚軍は鄭を伐ち、軍を進めてその城下に至り、信宿にして引き

    揚げた。

     だがその帰途、豪雨に遭遇し、滍水(しすい)を渡る時 多くの兵士や

    輜重兵が凍死した。

                       「春秋左氏伝 襄公十八年」

      「信宿」とは、古代の軍事用語であり、軍の宿営で「二晩の宿営」

       のことをいう。単に「信」ともいう。

        二晩より以上の宿営は、「(やどる)」という。

        因みに、一晩の宿営は、「舎」という。



     
      

     

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    中国通史で辿る名言・故事探訪(晋・平公の賢臣伝)

     「賢人・叔向と師曠」

                        春秋時代

     晋の29代平公(在位 前557~532)は太子の時に、晋の第一の

    英才と言われた叔向(しゅくきょう。羊舌肸《きつ》とも)が傅(お守り役)

    に付けられ、また壮年になってからは、盲目ながら賢人と称せられた

    師曠(しこう)を我が師と仰いだ。

     この師曠は、音楽の才に留まらず、物事の判断力、予測能力に優れ、

    且つ行政や治世の才もあり、平公の政治顧問としても珍重された。

     先代の悼公から平公の初期の時代に、最も権勢を誇ったのは

    欒氏(らんし)一族であった。

     その欒氏も紀元前550年に范宣子に滅ぼされ、代わって范氏一族の

    天下となる。

     この范氏は、その封地から士氏、随氏ともいう。


     「士を好べば、即ち賢士至る」

     君主が真に士を求めるならば、士は必ず集まるもの。

     晋の平公が西河に遊んだ時、嘆じて言った、

     「ああ、いずくんぞ賢士を得て与にこの楽を共にする者ぞ」と。

     すると船人の固桑進が対えて言った、

     「君の言 過(あやま)てり。

      それ剣は越に産し、珠は江漢(長江と漢水)に産し、玉は崑崙に

     産す。

      この三宝は皆 足無くして至る。

      今 君いやしくも士を好めば、則ち賢士至らん」と。

                  前漢の劉向 「新序」

     「田差、平公の驕奢を諌める」

     ある時 晋の平公が、疾駆させる豪華な馬車を作った。

     そして車には彩りの華やかな竜の旗を立て、之に犀や象の角を下げ、

    羽根飾りを付けた。

     そして車が完成すると、

     “ 金 千鎰(せんいつ)の車 ”、と書写してそれを宮殿の下に置き、

    群臣の観覧に供した。

     群臣の我も我もと見物する中、ただ一人 田差(でんし)はそこを

    三度も通りかかったのに一度も振り向かなかった。

     その様子を見ていた平公は、顔色を変えて激怒し田差を詰問した。

     「汝は車の側を三回通りかかったのに、一度も振り向かなかった。

     それには何か訳でもあるのか」と。

     すると田差は対えて、

     「私はこう聞いております。

     天子を相手としては天下の事を語り、諸侯を相手としては国家の事を

    語り、大夫を相手としては官職の事を語り、士を相手としては職務の事を

    語り、農夫を相手としては食糧の事を語り、婦女子を相手としては織物の

    事を語る、と。

     翻って桀王(夏の王)は驕奢の為に滅亡し、紂王(殷の王)は淫佚の

    為に没落したわけですので、私はあの車を振り向いて見たくはなかった

    のです」、と。

     平公はこれを聞くと、

     「よく分かった」と言い、側近の者に命じて直ちに車を片付けさせた。

                        前漢 劉向 『説苑 晋・反質』


     
      

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    中国通史で辿る名言・故事探訪(国君の追放)

    「衛の献公、斉に亡命す」

                      春秋時代

     衛の献公十八年(紀元前559年)、国君たる献公(25代)が卿大夫の

    孫林父(文子)に追放されて、斉に亡命するという悖逆の大事件が生じた。

     献公と孫林父の対立が極限に達しようとした時より少し前に、献公は

    二人の大臣、則ち孫林父と甯殖(惠子)と会食を約束していた。

     そして約束の日に、二人の大臣は朝服を着て参内したが、日が暮れても

    君からのお召しは無かった。

     聞くところによれば、君はまだ御苑で鳥の射に興じているという。

     二人はそのまま御苑に行ったが、献公からは侘びの一言も無かった。

     さすがにその場は怒りを抑えた孫林父であったが、自分の宰邑である

    戚(せき)に戻ってから怒りが爆発した。

     その後 少し冷静さを取り戻した孫林父は、君主との関係を重んじて、

    その後 自分の子である孫蒯(そんかい)を使いに立てて伺候させた。

     ところが献公は、代理で伺候した孫蒯に酒を与えたまま、何を思ったか、

    「詩経の小雅」から巧言を歌えと大師(楽官の長)に命じたが、大師は

    孫林父(文子)を刺激するのを恐れて辞退した。

        ※ 「巧言」とは、力も勇気も無くして乱を企てる者を誹謗する

          内容の歌である。

     ところがその時、献公に対して密かに遺恨を抱いていた楽人の師曹が

    願い出た。

     師曹は以前に、献公の身分卑しき愛妾に手琴を教えるように命じられ、

    その指導中に愛妾を少し鞭打ったことがあった。

     愛妾からその事を聞かされた献公は、激怒して師曹を鞭打たせること

    三百であった。

     師曹はこの歌を聞かせれば、やがて伝え聞いた孫林父が怒り、献公に

    報復してくれれば自分の恨みが癒されると思っての事であった。

     歌を聞いて、果たしてその意味の分かった孫蒯の顔色が変わった。

     彼は戚に飛ぶようにして帰ったが、父に直ちにその旨を報告した。

     改めて腹を据えた孫林父は、先ず国都から妻子を引き取り、ついでに

    衛の良識として尊崇される遽(きょ)伯玉に会って、之から己の為す

    べき行動について、同意を得ておこうとした。

     だが遽伯玉は、

     「国を治めるのは君主であり、理由はどうであれ臣下がどうして、それを

    犯せましょうか」と言い、

     後に 乱を避けるべく国都を出て他所の国を目指して去った。

     献公はその後 さすがにやり過ぎだと思うようになり、三人の公子を

    使者に立てて和解しようと画策したが、時は既に遅く三人の公子は

    殺されてしまった。

     また献公は孫林父の兵に攻め立てられ、献公は遂に斉へ出奔した。

     献公は、それから十二年後(紀元前546年)に帰国して復位することに

    なるが、衛ではその後 孫林父・甯殖に推されて穆公(23代)の孫の

    公孫剽(ひょう)が即位した。

     これが26代・殤公で、孫林父と甯殖が輔佐した。

      ※ 公孫剽は、史記では「姫秋」と記す。

                     「春秋左氏伝 襄公十四年」






     

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    中国通史で辿る名言・故事探訪(晋対秦)

     「遷延の役」

                        春秋時代

     「序章」

     紀元前562年 晋(28代悼公)と秦(14代景公)は鄭を巡って、

    黄河の東岸にある櫟(れき)で戦闘を交えた。

     秦の庶長鮑と庶長武が軍を率いて晋に侵攻し、鄭を救援した。

     先ず庶長鮑が晋の領内に侵入した。

     晋の士魴がこれを迎撃したが、秦軍の勢力を見誤り防備を怠った。

     十二月壬午(19日)、武は輔氏(地名)から黄河を渡り、魴に歩調を

    合わせて晋軍を攻めた。

     七日の後の己丑(26日)、両軍は櫟で会戦したが、晋軍は大敗した。

     この戦いを「檪の戦い」という。

                        「春秋左氏伝 襄公十一年」

     「遷延の役」   紀元前559年

     魯・襄公十四年(前559年)夏四月、晋は櫟の敗戦に報復するため、

    魯・斉・宋・衛・鄭・曹・莒・邾(ちゅう)・杞(き)などの諸国と向で会盟し、

    それぞれの国の大夫が率いる連合軍とともに秦を攻めた。

     晋侯は国境で待機し、三軍の将・佐の六人の率いる軍を進発させた。

     連合軍は涇水(けいすい)に達したが、そからは諸侯の軍は渡ろうと

    しなかった。

     晋の叔向が魯の叔孫穆子に会うと、穆子には渡る意志があると察して、

    叔向は退いて船を用意した。

     すると魯と莒の軍は、真っ先に河を渡った。

     鄭の子蟜(しきょう。公孫蠆)が衛の北宮懿子に会って、

     「晋と盟を結びながら動揺するのは、最も憎まれる元である。

     社稷の存立に係りますぞ」と謂うと、

     北宮懿子は故あることとして、動こうとしない諸侯国軍の大夫連中に

    渡河を勧めた。

     かくして晋の連合軍は涇水を渡って宿営したが、秦は上流から毒を

    流したので、連合軍では死者が多く出た。

     鄭の司馬・子蟜が軍を率いて進撃すると、諸侯の軍も後に続き

    棫林(よくりん)に達したが、秦との和議は纏まらなかった。

     晋の中軍の将・荀偃(中行献子)は指令を出して、

     「明朝、鶏が鳴いたら車に馬を繋ぎ、井戸を埋め竈を壊せ。

     そして余の馬の首をよく見ておれ」と。

     すると下軍の将・欒黶(らんえん)は、

     「晋国には未だ曽て、このような勝手な指令はない。

     余の馬の首は東を向きたがっておるぞ」と言って、

     帰国の準備を命じ、下軍はこれに従った。

     左史が下軍の佐の魏絳に、

     「中行伯(荀偃)の動きを見届けては」と言うと、

     「夫子(ふうし。荀偃のこと)は、将の指示を仰げと命じられた。

     欒伯(欒黶)は吾の将ゆえ、之に従う。将に従うのが夫子への正しい

    態度だ」と。

     後 荀偃は、

     「吾の指令は間違っていた。後悔しても間に合わぬ。

    秦に捕虜を残すだけだ」と言って、全軍に撤退を指令した。

     世評では、この出兵を「遷延の役」という。

     則ち、ぐずぐずした愚鈍な戦いと言う意である。

     だが欒黶の弟・欒鍼(らんけん)は、

     「この出兵は檪の戦いへの報復だったのに、戦果が無ければ晋の恥

    である。

     吾は兄の兵車の車右として、恥ずかしくてたまらぬ」と言い、

    士匃(しかい)の子・士鞅(しおう)と与に秦軍に突入した。

     そして欒鍼は戦死したが、士鞅は生還した。

     欒黶は士匃を非難して、

     「余の弟は突撃を望んでいなかったのに,汝の息子が弟を誘った

    のだ。余の弟は死んだのに、汝の息子は生還した。

     これでは余の弟は、汝の子に殺されたようなものだ。

     息子を晋から追放せぬと、余が殺してしまうぞ」と脅したので、

     士鞅は秦に逃げた。

                      「春秋左氏伝 襄公十四年」



     



     
           

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    中国通史で辿る名言・故事探訪(鄭の内乱)

     「衆恕は犯し難く、専欲は成り難し」

                        春秋時代

     大勢の人々から怒りを招くことになると、それに対抗することは難しく、

    又 自分ひとりの欲望を専らにしようとしても、成功は覚束ないもので

    ある。

     鄭の十五代・簡公二年(紀元前564年)冬、公族の連中が先代の釐公

    殺害の無念を晴らすため、宰相の子駟を襲撃するという陰謀が謀られた。

     だが陰謀を事前に察知した子駟は、先手を打って加担した諸公族を撲滅

    した。

     この族滅により、鄭国ではもはや公族で重職を得る者はいなくなった。

     朝廷における子駟の独裁色は一層強まったが、それから二年後 子駟に

    恨みを抱く五族と公族の残党が密かに結集して反乱を惹き起こした。

       ※ 五族:反子駟派の尉氏・司氏・堵氏・侯氏・子氏をいう。

          公族:子駟殺害計画を事前に察知され敗死した公子・子狐の

             子で、衛に亡命した孫撃と孫悪のこと。

     今度は彼らの密謀は漏れることなく、朝儀で朝廷に集まった所を急襲し、

    子駟と子産の父で司馬を務める子国らを殺害し、簡公を脅して人質にし、

    北宮に立て籠もった。

     この謀議には大臣の子孔(公子嘉)が加担してたと謂われるが、子孔

    は何らの手も打たなかった。

     事件を知った子産は素早く一族の兵を集めて、父が殺された西宮に

    向い、父の遺骸を収めてから、兵を北宮に進め、五族の反乱兵と戦闘

    を交えた。

     そこへ大夫の子蟜(公孫蠆《こうそんたい》)が国人層の兵を率いて

    応援に駆け付け、反乱軍を圧倒して簡公を救出した。

     反乱鎮圧後、大臣の子孔が宰相となったが、子蟜・子産の功績は

    誰の眼にも明らかで、人民の間で与に声望を高めた。

     子孔に次いで子蟜も執政に加わるようになり、対外政策は一貫して

    晋の盟約下に従った。

     子蟜の名は次第に高まり、それに反して宰相の子孔は、何ら為し得る

    ことは無かった。

     それどころか、子蟜の打ち立てた親晋路線を転換して、親楚路線を

    画策し、親晋派の大臣連中を一掃しようと企んだ。

     さらに子孔は、先の反乱の際の盟約書(載書)に基づき、旧体制下

    の位階の順序によって、官職に就くことを決めようと図った。

     子孔の措置に対して、大夫や諸司(役人)の多くは反対した。

     そこで子孔は彼らを粛清しようとしたので、再び内乱の様相を呈して

    きた。

     この危機に際して、子産は子孔に進言した。

     「先ずは多勢の怒りを収めるために、載書を焼却してしまうべきです」と。

     だが子孔は、

     「載書で以って国を定めようとするのだ。多勢が怒るからと言って焼く

    のでは、多勢が政治をするということになる。それでは国は治め難し」と

    言って、許そうとはしなかった。

     子産は猶も言う、

     「多勢の怒りは逆らいにくく、一人の専断は成功しにくい。

     この二つのし難いやり方で国を治めるのは、危険な事です。

     載書を焼いて多勢を落ち着かせる方がよろしい。さすれば、子は

    求めることが得られるし、多勢も安定します。

     衆恕は犯し難く、専欲はなり難し。


     多勢に逆らえば災禍を招きますし、一人の専断では事は成功しま

    せん。反対する者たちを宥(なだ)めるべきです」と。

     かくして子孔は、子産の意見に従って載書を焼いたので事なきを

    得たのである。

       ☆ 載書とは、本来は諸侯が会盟で盟約を結んで、その取り決め

         事項を記した文書をいった。


                       「春秋左氏伝 襄公十年」



      

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    中国通史で辿る名言・故事探訪(呉対楚の戦い)

     「鴆茲の戦い」

                        春秋時代

     紀元前570年、呉と楚の戦いがあった。

     呉の君子は19代寿夢、楚の君子は24代共王である。

     呉が楚の甲冑軍団を鴆茲(ちんし)で撃破する。

      「楚の子重(しちょう) 奔命に罷(つか)る。


      奔命に罷るとは、君命により戦場を駆けずり回り疲れ果てるさま。


     紀元前570年の春、楚の子重は呉を伐ったが、その軍勢はえり抜きの

    精鋭であった。

     先ず鴆茲(ちんし)を抜き衡山に至り、ここで鄧廖(とうりょう)を主将と

    して組甲(くみよろい)の・三百と被練の・三千で押し寄せた。

       ※  組甲:布紐で綿密に綴った頑丈な鎧。

          被練:布で粗雑に綴じた鎧。 

     ところが呉軍は伏兵を仕掛けており、楚軍を迎え撃ち鄧廖を撃殺した。

     楚軍でうまく逃げ帰ったのは、組甲の八十と被練の三百だけであった。

     子重は先に帰っていて、既に勝ち祝いまでしてから三日が過ぎていたが、

    呉軍は猶も攻め込み、駕の地を奪った。

     この駕は楚にとって、とりわけ豊かな邑であり、また討死した鄧廖も

    楚の名士であった。

     当時の君子は、次のように評した。

     「子重がこの戦いで獲たものは、亡くなったものに及ばぬ」と。

     楚の国人は、其の事を種にして子重を非難したので、子重は次第に

    心痛から脳を患い死んでしまった。

                        「春秋左氏伝 襄公三年」

     

     

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    tyouseimaru

    Author:tyouseimaru
    出身地は四国八十八か所参りの発心の阿波、大阪を終の棲家とする。
    歴史好きで、城郭・神社仏閣・歴史遺跡巡りが趣味となる。
    歴史小説や時代小説を好み、往年の著名な時代小説の類は概ね完読と、自負している。

    自薦
    自著「中国通史で辿る名言・故事探訪」の 上・中・下の3巻を、 近い内に「電子書籍」での出版を予定しています。 今年一年間は、さらに工夫を加えるなどして、補記訂正などの校正を第一義としています。       
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