中国通史で辿る名言・故事探訪(苑濮の盟)
「苑濮の盟」
東周
前629年 衛は狄に攻め込まれて帝丘(商丘とも)に遷都した。
それより前の紀元前634年、衛では文公(21代)の卒(しゅつ)
後 その子の鄭が即位した。これが22代成公である。
だが当時、晋と楚という二大強国に挟まれた衛などの弱小国は、
その舵取りを誤れば亡国の運命を背負うこともあった。
後に宋国を巡る晋と楚の覇権をかけた戦いで、成公は先代に引き
続き楚を与国として晋に立ち向かった。
だが戦いが始まるや晋の策謀により、成公は一時期ではあるが国人
らに国を追われ、楚に奔ることになる。
晋に攻略された衛の国人層が晋の要求により、国を復する条件として
衛君の追放を呑んだのである。
そして両雄の争いで現実に覇権を手中にしたのは、晋の文公である。
文公は、斉の桓公に続いて春秋の第2代目の覇者となる。
後に六月になると、成公は晋に許されて衛に復帰した。
成公に随行して国外にいた賢大夫の寗武子(ねいぶし)は、衛の国人
らと苑濮で盟をなした。
其の命に曰く、
「天 衛国に禍し、君臣協(かな)わず、以って此の憂いに及べり。
今 天 その衷(まこと)を誘い、皆 心を降して以って相従わしむる
なり。
(=だが今や、天のお蔭で以って君臣共々衷心を取り戻し、立場を
越えて和協するようになった。)
居る者(残留者)有らずんば、誰か社稷を守らん。
行く者(君の随行者)有らずんば、誰か牧圉を守らん。
※ 牧圉とは、ここでは君の御車を管理する者の意から、
君の身辺警護をいう。
不協の故に、以って明らかに盟を大神に乞いて、以って天衷を啓く。
(=和協しなかったので、ここで大神に誓いを立てて、天の示す誠
のお導きをお願いしよう。)
今日より以往、既に盟うの後 行く者は其の力を保つことなく、居る者
は其の罪を懼れること無かれ。
(=今日より後、盟を交わした後は、君に随行した者は其の功労
を誇ることなく、国に残留して祀りを守った者も君に従わなかった
という罪を畏れることは無い。)
この盟に背く者有れば、禍 たちどころに降りて、明神、先君これに
誅罰を加えられん」と。
衛の国人は、此の盟を聞いてようやく、
誰に付くべきか付かざるべきかと苦衷したり、疑心暗鬼の思いを
持たなくなった。
「春秋左氏伝 僖公二十八年」
東周
前629年 衛は狄に攻め込まれて帝丘(商丘とも)に遷都した。
それより前の紀元前634年、衛では文公(21代)の卒(しゅつ)
後 その子の鄭が即位した。これが22代成公である。
だが当時、晋と楚という二大強国に挟まれた衛などの弱小国は、
その舵取りを誤れば亡国の運命を背負うこともあった。
後に宋国を巡る晋と楚の覇権をかけた戦いで、成公は先代に引き
続き楚を与国として晋に立ち向かった。
だが戦いが始まるや晋の策謀により、成公は一時期ではあるが国人
らに国を追われ、楚に奔ることになる。
晋に攻略された衛の国人層が晋の要求により、国を復する条件として
衛君の追放を呑んだのである。
そして両雄の争いで現実に覇権を手中にしたのは、晋の文公である。
文公は、斉の桓公に続いて春秋の第2代目の覇者となる。
後に六月になると、成公は晋に許されて衛に復帰した。
成公に随行して国外にいた賢大夫の寗武子(ねいぶし)は、衛の国人
らと苑濮で盟をなした。
其の命に曰く、
「天 衛国に禍し、君臣協(かな)わず、以って此の憂いに及べり。
今 天 その衷(まこと)を誘い、皆 心を降して以って相従わしむる
なり。
(=だが今や、天のお蔭で以って君臣共々衷心を取り戻し、立場を
越えて和協するようになった。)
居る者(残留者)有らずんば、誰か社稷を守らん。
行く者(君の随行者)有らずんば、誰か牧圉を守らん。
※ 牧圉とは、ここでは君の御車を管理する者の意から、
君の身辺警護をいう。
不協の故に、以って明らかに盟を大神に乞いて、以って天衷を啓く。
(=和協しなかったので、ここで大神に誓いを立てて、天の示す誠
のお導きをお願いしよう。)
今日より以往、既に盟うの後 行く者は其の力を保つことなく、居る者
は其の罪を懼れること無かれ。
(=今日より後、盟を交わした後は、君に随行した者は其の功労
を誇ることなく、国に残留して祀りを守った者も君に従わなかった
という罪を畏れることは無い。)
この盟に背く者有れば、禍 たちどころに降りて、明神、先君これに
誅罰を加えられん」と。
衛の国人は、此の盟を聞いてようやく、
誰に付くべきか付かざるべきかと苦衷したり、疑心暗鬼の思いを
持たなくなった。
「春秋左氏伝 僖公二十八年」