中国通史で辿る名言・故事探訪(元帝の百六掾)
「元帝の百六掾(えん)」
晋時代
後に東晋王朝を開く元帝(司馬睿)が、安東将軍兼揚州総都督の際に
これを援けた百六人の掾佐(えんさ。高級属官)のこと。
司馬睿(後の東晋王朝の元帝)は、晋王朝の懐帝の時代には琅邪王で
あったが、安東将軍に任ぜられ揚州の総都督兼務となり、建鄴に駐屯し
ていた。
※ 兼務とは、民政と軍事の統括を任されていたということ。
しかし王朝内における司馬睿の地位は低く、その為 揚州の人々は
彼を信頼することはなかった。
時に司馬睿は、琅邪臨沂における南朝の名門貴族と謳われた王導
(字は茂弘)を招いて何事によらず師事していたが、彼の献策に基づい
て、旧呉国の名族の顧栄や賀循らを任用し、また新旧の別なく民衆を
慰撫したので、ようやく江東の民衆を惹きつけることが出来るように
なった。
※ 新旧の別なくとは、中原の乱を避けて江東の地に流れ込んできた
民衆を「新」といい、江東土着の民衆を「旧」というが、彼らを差別し
ないことを言う 。
司馬睿はさらに、庾亮(ゆりょう)、卞壺(べんこ)らを招聘し、
幕下の名士は百余名に上った。
之が世に謂う、「元帝の百六掾」である。
王導は政務を補佐したが、王導の従弟・王敦(おうとん)は軍事を
掌握し、この二人は一体となって安東将軍兼楊朱烏巣都督の司馬睿を
援けた。
晋時代
後に東晋王朝を開く元帝(司馬睿)が、安東将軍兼揚州総都督の際に
これを援けた百六人の掾佐(えんさ。高級属官)のこと。
司馬睿(後の東晋王朝の元帝)は、晋王朝の懐帝の時代には琅邪王で
あったが、安東将軍に任ぜられ揚州の総都督兼務となり、建鄴に駐屯し
ていた。
※ 兼務とは、民政と軍事の統括を任されていたということ。
しかし王朝内における司馬睿の地位は低く、その為 揚州の人々は
彼を信頼することはなかった。
時に司馬睿は、琅邪臨沂における南朝の名門貴族と謳われた王導
(字は茂弘)を招いて何事によらず師事していたが、彼の献策に基づい
て、旧呉国の名族の顧栄や賀循らを任用し、また新旧の別なく民衆を
慰撫したので、ようやく江東の民衆を惹きつけることが出来るように
なった。
※ 新旧の別なくとは、中原の乱を避けて江東の地に流れ込んできた
民衆を「新」といい、江東土着の民衆を「旧」というが、彼らを差別し
ないことを言う 。
司馬睿はさらに、庾亮(ゆりょう)、卞壺(べんこ)らを招聘し、
幕下の名士は百余名に上った。
之が世に謂う、「元帝の百六掾」である。
王導は政務を補佐したが、王導の従弟・王敦(おうとん)は軍事を
掌握し、この二人は一体となって安東将軍兼楊朱烏巣都督の司馬睿を
援けた。