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    中国通史で辿る名言・故事探訪(垂簾之政)

     「垂廉之政」

                        清代

      「臨朝称制」ともいう。

      中国では、幼少の天子に代わって太后或いは皇太后が

     国政を執り行なうことをいう。

      宮中の玉座の前に垂らされた簾の陰で、政を聞くの意。

      日本では、一般的には天皇が死亡した後、次代の継承者たる

     皇太子や先帝の后が即位しないで政務を執ることがあったが、

     これを「称制」といった。日本の称制は、天皇不在である。

      清朝の第9代咸豊帝は、長年の淫乱生活が祟って、原因不明

     の熱病に犯され重体に陥った。

      この時 蘭貴妃(後の西太后)は意識不明の咸豊帝の病床で、その

     後継者として我が生んだ子である載淳を認めさせた。

      皇帝の死後 3歳の載淳が10代同治帝として即位し、遺命により

     指名された8人の側近が輔佐するようになった。

      ところが彼らは幼帝を侮り、権力を独占するに至った。

      咸豊帝の慈安皇后と蘭貴妃は、新たに王族となった咸豊帝の

     弟の恭親王を抱き込んで周到な計画を巡らし大粛清を断行した。

      事ここに至り、慈安皇后と蘭貴妃による女二人の垂廉政治が

     始まった。

      清朝の祖法により、同治帝の嫡母たるべき慈安皇后はいつしか

     「東太后」と呼ばれ、同治帝の実母たる蘭貴妃は「西太后」

     称されるようになった。

      ところがその内、東太后には実子は無く、また政治的見識もなく、

     控えめな性格であったので、ついに西太后の独壇場となった。

      同治14年(1875年)1月12日 同治帝が19歳の若さで早逝

     した。死因は天然痘とも淫乱による梅毒とも言われる。

      そこで咸豊帝の弟の醇親王奕譞(えきけん)に嫁した西太后

     の妹が生んだ5歳の載湉(さいてん)が西太后に推されて即位した。

      これが11代光緒帝である。

      西太后にとっては、同治帝にも増して「垂廉聴政」が遣り易くなった

     といえる。





      
      

    テーマ : 中国古典・名言
    ジャンル : 学問・文化・芸術

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    Author:tyouseimaru
    出身地は四国八十八か所参りの発心の阿波、大阪を終の棲家とする。
    歴史好きで、城郭・神社仏閣・歴史遺跡巡りが趣味となる。
    歴史小説や時代小説を好み、往年の著名な時代小説の類は概ね完読と、自負している。

    自薦
    自著「中国通史で辿る名言・故事探訪」の 上・中・下の3巻を、 近い内に「電子書籍」での出版を予定しています。 今年一年間は、さらに工夫を加えるなどして、補記訂正などの校正を第一義としています。       
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