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    中国通史で辿る名言・故事探訪(士大夫の時代へ)

     「晋の勢力交代」 

                        春秋時代

     晋の平公(29代)の御世(紀元前557年~532年)、その2年前

    までは欒(らん)氏一族が勢力を誇っていたが、大夫の范宣子(士匃)が

    首謀となり欒氏一族を誅滅しようとした。

     欒氏の宗家の欒盈(らんえい)は敗れて楚に奔り、さらに斉に亡命

    して巻き返しを画策した。

     魯・襄公二十二年(前550年)、晋では平公八年の時 斉の荘公

    (25代)の陰の支援により、欒盈は晋の国都・曲沃に潜入し、胥午や

    魏献子(魏舒)を味方に引き入れて反撃に出ようとした。

     だが士匃(しかい)親子は冷静な判断で以って、その持てる権力を

    最大限に発揮して反乱を鎮圧した。

     欒盈は誅殺したが、欒魴(ぼう)は宋に逃亡した。

     この陰謀があってから、晋の旧貴族である胥氏、原(先)氏、孤氏、

    続(しょく)氏、慶氏、伯氏などが滅び去った。

     その結果 生き残ったのは、中行氏(荀氏)・知(智)氏・范氏(士氏)・

    韓氏・魏氏それに趙氏らの六人の卿大夫であり、所謂 「六卿」であった。

     その中でも最大の権力を握っていたのは、欒氏を亡ぼした范宣子(士匃)

    と次代を担った宣子の子である范献子(士鞅)である。

     彼等の担った時代は、旧王侯貴族に取って代わり新しい勢力となった

    ので、「士大夫の時代」という。 



         

    テーマ : 中国古典・名言
    ジャンル : 学問・文化・芸術

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    中国通史で辿る名言・故事探訪(儒家の祖)

     「孔子生れる」

                        春秋時代

     公子の生没年については、通説では紀元前551年~479年となる。

     春秋公羊伝や春秋穀梁伝では、紀元前552年~479年。

     孔子は「儒家の祖」とされる。孔子の名は丘、字は仲尼。

     魯の昌平郷の貧しい家に生まれる。

     孔子は神話時代の堯・舜、古代の周王朝の文王(追贈)・武王・叔旦

    (周公旦)を尊崇し、古来の思想を大成した。

     仁を理想の道徳となし、孝悌と忠恕とを以って理想を達成しようとした。

     孔子の父は、孔紇(こつ)と言い、字は叔梁。背が高く武に優れていた

    という。

     母は顔氏の三女で、名は徴在。正式の婚姻(媒酌人のある婚姻)関係

    ではなかったので、孔子は正嫡出子ではなかった。

     「史記・孔子世家」によれば、

     「孔紇、顔氏の女と野合(やごう)して孔子を生む。

     尼丘(丘の名)に祷(いの)りて孔子を得たり。

     魯の襄公二十二年(前551年)にして孔子生まる。

     首上(頭上) 圩頂(うちょう。頭の頂が窪むの意)なり。

     故に因りて名付けて丘と曰う」と。

     公子は幼児の時から、「俎豆(そとう)遊び」と言って、祭器をいじくって

    独りで遊んでいたという。

     それと言うのも孔子の母が、儒と云う祈祷師(招魂礼儀など)の出自

    であり、そういう家庭環境の為せる子供心の業ではないかとも言われる。

      ※ 史記に言う「野合」云々については説が分れる。

         絶対的条件である仲人を介していないので、正式の夫婦に非ず、

        とする説。

         正式に結婚したが、当時の仕来りで要求される礼儀の全てが

        不備であったとする説。

     貧困の内に育ったが、長じてからは魯国の三桓と言われた実力者の

    季孫氏に仕え、初めは穀物の測量に従事、次いでその仕事ぶりが

    認められて牧畜の任に就いた。

     孔子と「道家の祖」とされる老子の関係について、「史記」では孔子の

    弟子となっていた南宮敬叔(魯の三桓の仲孫何忌の二男)が君主の許し

    を得て孔子と共に周都に遊学し、老子について「礼」を学んだと記す。

     後世 聖人君主と崇められる孔子の言行録・事績は、飛躍したり拡大

    解釈されて伝わるようになるが、漢代に至り儒教が国教となった、という

    事実に留意しておく必要がある。

     ☷ 拾遺・弥縫

       「四聖人」

        神話時代の伏羲氏・周の文王・春秋時代の孔子を「三聖人」と

       いうが、孔子は周の建国功労者の周公旦を聖人として崇めるので、

       この四人を「四聖人」となす。

        戦国時代の孟子は、聖人に準ずるという意味で、「阿聖」と言わ

       れる。

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    中国通史で辿る名言・故事探訪(斉の杞梁と華舟)

     「生きては忠義を尽くし、死しては名声を立てる」


                        春秋時代

     斉の荘公(25代)は、莒(きょ)を討伐する意向を明らかにし、討伐に

    際して、五台の車に勇士を抜擢して載せることに決っした。


       ※ 斉の荘公の在位期間 : 紀元前553年~548年
      
     ところが、この選抜に普段から勇を以って満を持す大夫の杞梁と華舟が

    いたが、選抜に漏れてしまった。

     二人は意気消沈して、それぞれ家に帰ったものの食事も一切摂ろう

    とはしなかった。

     そのあり様を見て母は言った、

     「お前は生きている内に忠義を尽くすことも無く、死んでからも名声を

    遺すことも無ければ、選に漏れたとしても誰もお前を笑ったりはしない

    だろう。

     だが生きている内に忠義を尽くし、死んでから名声を立てるようなこと

    になれば、五台の車の勇士たちもすべてお前より劣っていることになる

    のだよ」、と励ました。

     それから母は、急いで食事をさせ息子を戦いに追い遣った。

     季梁と華舟は同じ車に乗って、それぞれの臣下を率いて荘公に付き

    従った。

     やがて莒に至ると、敵軍は防戦に努めたが、二人は車を降りて戦い、

    敵兵を三百も討ち取った。

     荘公はいたく感心して、

     「もう其の位で止めるがよい。褒美として封土を与えよう」と慰労した。

     二人は君に対えて、

     「我々は五台の車の勇士の選に漏れました。

     これは我々の勇気が軽んじられたからです。

     我々は今 敵を相手にして障害を乗り越えました。

     この時に利益を与えるからと言って、戦いを止めさせるのは、我々の

    行動を汚すものでしかありません。

     どこまでも突進して、多くの敵を殺すのが臣下の務めです。

     封土を分けてもらうなど、我々の念頭にありません」と言って、猶も敵陣

    に突き進んで陣列を崩して混乱させた。

     そして遂に城下に至ると、この二人の勇猛ぶりに今度は莒の側から、

     「みすみす死ぬことはあるまい。お前たちに莒の国土を分けてやろう

    ではないか」
    と、持ちかけてきた。

     だが二人は、改めて己の信念を開陳した。

     「自分の国に背いて敵側に帰順するのは、忠臣に非ず。

     自分の主君を棄てて、贈り物を受けるのは立派な行為とは言えません。

     しかも夜明け前に約束したばかりなのに、真昼になって其れを忘れる

    ようでは信頼を裏切ることになります。

     何処までも突進して、多くの敵を殺すのが臣下たる者の務めです。

     莒の封土を分けてもらうなどという事は、我々の念頭にはありません」

    と言って、更に勇んで突き進み、敵兵を二十七人道ずれにして壮烈な死を

    遂げた。

     戦端が終わった後、彼等の二人の妻は城壁の側で、夫の末期の言葉

    を耳にして号泣して大いに悲しみに暮れた。

     傍目にもその泣き声が余りにも悲痛だったので、城壁が壊れてその

    一隅が崩れ落ちる程であったという。

      この戦死した季梁と華舟の妻が哭いて悲しみ、城壁を崩したという

      故事はその後 永く語り継がれて、後に万里の長城秘話と言われる

      「孟羌女伝説」を生み出すきっかけとなる。



      

       

    テーマ : 戦記
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    中国通史で辿る名言・故事探訪(晋の連合軍対斉)

     「平陰の戦い」          

                      春秋時代

     晋(29代平公)・魯・鄭など11ヵ国連合軍対斉(24代霊公)の戦い。

     魯の襄公十八年(前555)秋、斉の霊公は魯の北境を侵した。

     1 「中行偃の夢見」

     晋の卿大夫・中行献子(荀偃)はおりしも斉を伐つ夢を見た。

     かつて欒書と結託し、前573年に程滑を使嗾して君たる厲公(27代)

    を弑殺し、君の後釜には晋の血筋をひく孫秀を周都から迎え入れて

    即位させたことがあったが、この夢中でその厲公に我が首を切り落とされ

    て、我が首を拾って走っている内に梗陽の巫皐(ふこう)に出会うという夢

    であった。

     夢 覚めた後、その巫皐に話をすると、巫皐も同じ夢を見たという。

     そして巫皐は言った、

     「今年 貴方は必ず死ぬでしょう。だが、若し東方で事が起きたならば、

    思う通りになさることが出来るでしょう」と。

     晋の平公三年(前555年)冬十月、晋は魯・宋・衛・鄭・曹・莒などの

    弱小国の十一ヵ国からなる連合軍を率いて東征し、斉の霊公と覇権を

    懸けて戦った。

     斉の霊公は、晋君に取って代わり天下の盟主にならんと並々ならぬ野望

    を燃やし、蚤に富国強兵に努め虎視眈々と狙っていたのである。

     しかし如何せん、斉一カ国では力に限りがあり、東征した晋の連合軍は

    圧倒的兵力で斉軍を攻め立てた。

    2 「平陰に禦(ふせ)ぎ、防門に塹(ほり)して、之を広里に守る」

     斉の霊公は晋の連合軍の侵攻を濟(済)水南岸の平陰で禦(防御)ぎ、

    防門では幅一里の塹壕を作り、広里で守ろうとした。

       ※ 前漢時代には、一里は405メートルであったのだが、

          この時代は ? 。

     この時 しかし宦官の側近・夙沙衛が斉公に進言した、

     「戦う力が無いのなら、ただ広里の守りだけを固めるとよいでしょう」と。

     だが斉公は聞かず、対する敵連合軍は防門に猛攻を仕掛けて、斉

    では多くの兵士が戦死した。

     晋の范宣子(士匃)が、普段 親しくしていた斉の析(き)文子に同盟国の

    魯と莒が間もなく斉に猛攻を加えるだろうと忠告し、早急の善処を採られ

    たしと促した。

     そこで析文子が斉公にその事を知らせると、斉公は心配をし始めた。

     晏嬰(あんえい)は言う、

     「もとより勇気の無いお方だ。そこへもってきて、そんな話を聞かされた。

    長いことは無いだろう」と。

     晋軍の方では、山や谷を埋め尽くして大軍を偽装していた。そんな有様

    を斉公は巫山に登って眺望したものだから、一人先に逃げ帰ってしまい、

    三日の闇夜には斉の全軍は撤収した。

     四日の始め 晋軍は平陰に入り猶も斉軍に迫った。

     斉軍では夙沙衛が殿を務め、細路に車を並べ立てて晋軍の進撃の 

    防護柵代わりにした。

     斉の殖綽・郭最の二人は、

     「子(宦官の夙沙衛)が国軍の殿を務めたとあっては、斉の恥になる。

     先に行かれよ」と言ったので、

     夙沙衛は腹を立てて、狭い径で馬を殺して径を塞いでしまった。

     その後 斉の郭最らが殿を代わったので、殖綽は晋の州綽に弓で両肩

    を射られ、郭最も晋の中軍の捕虜となり、二人とも戦車に括りつけられて、

    太鼓の下に座らされた。

     十二月二十五日、晋軍は斉の都・臨淄(りんし)に攻め込み、あちこちの

    城壁の一部を破壊するまでに至った。

     斉公は既に馬を車に取り付けて郵棠(ゆうどう)に逃げようとしたところ、

    太子光と郭栄が必死に諌めて、ようやく斉公も思い止まった。

    3 楚の参戦

     その後も晋軍の大夫たちは、斉の各地を荒らしまわり、十一日には

    東は濰(い)、南は沂(き)に至る。

     事態がここまで進むと、晋の同盟国軍であった鄭では、国の留守を

    守っていた大夫・子孔が、晋の大夫らの横暴を畏れて晋に背き楚に誼を

    通じようと画策した。

     楚の令尹・子庚(公子午)は心ならずも楚王の意を汲んで汾(ふん)に

    於いて勢揃いをした。

     一方では鄭の留守を守っていた子孔は、同じく守りに就いていた子展

    らが彼の考えを見破り城郭の構えを十分にして守ったので、容易に楚の

    軍に加わる機会が無かった。

     また斉での捷報が晋の平公の元に届いた時、同盟国軍の鄭国に楚軍

    が侵攻し始めたという急報があり、連合軍は戦場から撤退した。

     その後 楚軍は鄭を伐ち、軍を進めてその城下に至り、信宿にして引き

    揚げた。

     だがその帰途、豪雨に遭遇し、滍水(しすい)を渡る時 多くの兵士や

    輜重兵が凍死した。

                       「春秋左氏伝 襄公十八年」

      「信宿」とは、古代の軍事用語であり、軍の宿営で「二晩の宿営」

       のことをいう。単に「信」ともいう。

        二晩より以上の宿営は、「(やどる)」という。

        因みに、一晩の宿営は、「舎」という。



     
      

     

    テーマ : 戦記
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    中国通史で辿る名言・故事探訪(晋・平公の賢臣伝)

     「賢人・叔向と師曠」

                        春秋時代

     晋の29代平公(在位 前557~532)は太子の時に、晋の第一の

    英才と言われた叔向(しゅくきょう。羊舌肸《きつ》とも)が傅(お守り役)

    に付けられ、また壮年になってからは、盲目ながら賢人と称せられた

    師曠(しこう)を我が師と仰いだ。

     この師曠は、音楽の才に留まらず、物事の判断力、予測能力に優れ、

    且つ行政や治世の才もあり、平公の政治顧問としても珍重された。

     先代の悼公から平公の初期の時代に、最も権勢を誇ったのは

    欒氏(らんし)一族であった。

     その欒氏も紀元前550年に范宣子に滅ぼされ、代わって范氏一族の

    天下となる。

     この范氏は、その封地から士氏、随氏ともいう。


     「士を好べば、即ち賢士至る」

     君主が真に士を求めるならば、士は必ず集まるもの。

     晋の平公が西河に遊んだ時、嘆じて言った、

     「ああ、いずくんぞ賢士を得て与にこの楽を共にする者ぞ」と。

     すると船人の固桑進が対えて言った、

     「君の言 過(あやま)てり。

      それ剣は越に産し、珠は江漢(長江と漢水)に産し、玉は崑崙に

     産す。

      この三宝は皆 足無くして至る。

      今 君いやしくも士を好めば、則ち賢士至らん」と。

                  前漢の劉向 「新序」

     「田差、平公の驕奢を諌める」

     ある時 晋の平公が、疾駆させる豪華な馬車を作った。

     そして車には彩りの華やかな竜の旗を立て、之に犀や象の角を下げ、

    羽根飾りを付けた。

     そして車が完成すると、

     “ 金 千鎰(せんいつ)の車 ”、と書写してそれを宮殿の下に置き、

    群臣の観覧に供した。

     群臣の我も我もと見物する中、ただ一人 田差(でんし)はそこを

    三度も通りかかったのに一度も振り向かなかった。

     その様子を見ていた平公は、顔色を変えて激怒し田差を詰問した。

     「汝は車の側を三回通りかかったのに、一度も振り向かなかった。

     それには何か訳でもあるのか」と。

     すると田差は対えて、

     「私はこう聞いております。

     天子を相手としては天下の事を語り、諸侯を相手としては国家の事を

    語り、大夫を相手としては官職の事を語り、士を相手としては職務の事を

    語り、農夫を相手としては食糧の事を語り、婦女子を相手としては織物の

    事を語る、と。

     翻って桀王(夏の王)は驕奢の為に滅亡し、紂王(殷の王)は淫佚の

    為に没落したわけですので、私はあの車を振り向いて見たくはなかった

    のです」、と。

     平公はこれを聞くと、

     「よく分かった」と言い、側近の者に命じて直ちに車を片付けさせた。

                        前漢 劉向 『説苑 晋・反質』


     
      

    テーマ : 中国古典・名言
    ジャンル : 学問・文化・芸術

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    tyouseimaru

    Author:tyouseimaru
    出身地は四国八十八か所参りの発心の阿波、大阪を終の棲家とする。
    歴史好きで、城郭・神社仏閣・歴史遺跡巡りが趣味となる。
    歴史小説や時代小説を好み、往年の著名な時代小説の類は概ね完読と、自負している。

    自薦
    自著「中国通史で辿る名言・故事探訪」の 上・中・下の3巻を、 近い内に「電子書籍」での出版を予定しています。 今年一年間は、さらに工夫を加えるなどして、補記訂正などの校正を第一義としています。       
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