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    中国通史で辿る名言・故事探訪(日清戦争)

     「日清戦争」

                          清朝

      光緒二十年(1894年 明治二七年)七月から翌年二月にかけて、

     眠れるアジアの獅子と評された清国は、李氏朝鮮に対する宗主権

     と、朝鮮半島における日本の権益の駆け引きを巡って互いに出兵し、

     戦端が開かれた。

      日本軍が豊島沖で、清国の偽装艦船を攻撃し開戦に到る。

      清国軍は、平壌、黄海、威海衛、遼河対岸の田荘台で敗北を喫し、

     光緒 二十一年二月 下関で講和条約を締結した。

      中国は台湾の割譲と賠償金 二億両(テール)を払い、且つ遼東半島

     における日本の権益を保証して条約を締結し批准した。

      ※ この二億両は、当時の日本の国家予算の二年分に相当する額

        であり、日本の要した戦費の総額でもあった。

         なお、遼東半島における権益については、後にロシア・ドイツ・

        フランスの三国干渉により放棄するに至る。

     

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    中国通史で辿る名言・故事探訪(洋務運動)

     「洋務運動と艦隊の創設」

                            清朝

      遅ればせながら、朝廷内外では有識者が富国強兵を進めるため

     その手段として列強各国と積極的に外交交渉を展開し、西欧先進

     諸国の工業技術やまた事業経営の手法を導入し、また政治的改革

     の断行を図ろうとする運動がおこなわれた。

      このような運動を「洋務運動」という。

      最大の事業は欧米の技術、特に頑強な軍艦と性能の高い武器・弾薬

     の技術導入であり、やがては自力による軍需工場と近代的な軍隊の

     創設を達成しようとする近代化運動でもあった。

      その先駆けは曽国藩であり、左宗棠(そうとう)であった。

      曽国藩が第一線を退いた後は、積極的にその実践をになったのは

     李鴻章などの洋務運動を推進しようとする官僚達であった。

      彼らは、その資金源として王朝の国庫財政ではなく、釐金(りきん)

     と関税に頼った。

        ※ 釐金とは、清朝末期から行われた貨物通過税。

          1853年、太平天国の乱の鎮圧の軍事費に当てるため制定。

          商品価格の「100分の1(1釐)」を課税した。

      「艦隊の創設」

        同治十三年(1874年)の日本による台湾出兵を契機として、清朝

       は改めて海軍を設置することを決定した。

        そのため既存の軍閥水師を強化して福建艦隊と南洋艦隊が創設

       された。

        だがそれらの海軍は、各々の軍閥の人脈で編成・運用されたので、

       指揮運用はバラバラであり、統一的な指揮系統に置かれることは

       無かった。

        北洋軍閥(前身は淮軍)の総帥・李鴻章は、光緒六年(1880年)

       に「北洋艦隊」を創設した。

         李鴻章はドイツ・イギリスから最新鋭の戦艦や大型巡洋艦を

       相次いで購入して配備。当時において東洋最大と謂われる大艦隊

       に育て上げた。

        艦隊の編成は、排水量7000トン級の大型戦艦が2隻に巡洋艦

       10隻を配するという堂々たるものであった。

        ちなみのこの大型戦艦は、旗艦の定遠と鎮遠である。 

        ところが後のインドシナ半島の権益をめぐる清仏戦争(1884年~

      1885年)の際、北洋艦隊は出撃することなく、身勝手に自軍の勢力

      の温存を図るという体たらくであった。

       

        「清末の三傑」

          曽国藩・左宗棠・李鴻章は清末の三傑と称せられる。



          

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    中国通史で辿る名言・故事探訪(回族の大叛乱)

     「回族の大叛乱」

                           清朝

      清王朝の屋台骨を揺さぶった太平天国の乱の勢いが漸く下火に

     なった頃、西方の雲南地方で回族の大規模叛乱が生じた。

      朝廷は鎮圧に努めるがその実効は上がらなかった。

      そこで、太平天国の乱で鎮圧の将・曽国藩の片腕として活躍した

     左宗棠(さそうとう)に鎮圧軍指揮の命が下った。

      左宗棠は咸豊十年(1860年)に曽国藩の推挙により、湘軍を

     率いて太平天国軍の残党を制圧する功を挙げたが、その後 

     フランスの協力を得て福州に造船所を造り、水師(海軍)を創設した

     が、これが後の福建水師となる。更に曽国藩に倣い漢人義勇兵の

     「楚軍」を編成していた。

      陝甘総督(陝西・甘粛に司令官)となった左宗棠は、義勇兵・楚軍を

     率いて戦った。

      非常な苦労の後、同治五年(1866年)、ついに叛乱の平定に成功し

     たかに見えたが、幾ばくも無く回族(西トルキスタン系ウイグル族)の

     ヤクブ・ベクが新彊において自立してしまった。

      その背後にはイギリスやロシアの蠢動が見え隠れしていたので、朝廷

     内部では新彊放棄論が持ち上がった。

      時の朝廷内部では、目下の国家の急務として李鴻章の「海防論」と

     左宗棠の「塞防論」が論議されていた。

      海防論は海軍増強策を、塞防論は辺境回復策を論じたものである。

      この問題で、左宗棠は強硬に武力奪還を主張し、結局 彼の意見が

     容れられ、左宗棠は新彊叛乱軍鎮圧の総司令官兼欽差大臣に任ぜ

     られた。

      彼は用意周到な作戦計画を立てる一方、新彊住民に対する政治的

     配慮と慰撫工作の両面作戦を展開し、急ぐことなく時間をかけて取り

     組み、遂に新彊の回復に成功した。時に 同治十三年(1873年)五月

     のことである。

      「左宗棠 独断専行す」

      新彊を回復するという国家の名目は立ったがこの時、イリ地方には

     帝政ロシアの軍隊が進駐していた。

      左宗棠はその奪還を目論んだ。

      疲弊した清朝内部では、ロシアを相手にして、下手をすると国際紛争

     に発展することを懼れ、左宗棠を抑えて外交交渉により返還を図ろう

     とした。

      ところが交渉は難航し埒があかないのを見て、左宗棠は自ら率いる

     楚軍をハミに駐屯させてロシアに睨みを利かせ、朝廷の外交交渉を

     強力に支援した。

      その結果、遂に領土拡大に奔走するロシアから譲歩を勝ち取り、

     イリの返還が実現したのである。

      左宗棠なかりせば、現在の中国の新疆はおろか、周辺の少数民族

     居住地も失陥していただろう、と言われるほどの大功績を挙げた。

      「左宗棠の人物評」

      廉にして貧を言わず、謹にして労を言わず。

      人格は清廉にして貧しい境遇にあっても不平不満を言わないし、謹厳

     にして自らの苦労を面に出さない。

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    中国通史で辿る名言・故事探訪(天下を治むるは貪を懲らし、)

      天下を治むるは貪たんを懲らし、

        廉れんを薦むるを以って要となす。


                    清

       政治の要諦は、先ず汚職を封じ貪官(たんかん)を断罪し、清廉

      を奨めて清賢の官を進めることが肝要である。

       清朝の黄金期を創出し、その晩節を全うした稀有の皇帝である

      康熙帝の言葉。 

       二十四歳で崩じた順治帝の後を受けて、順治帝の三男で八歳の

      玄燁(げんよう)が、清王朝の第4代康熙帝(愛新覚羅玄燁)として

      即位したが、康煕六年(1667年)、十五歳になると親政を開始した。

       だが、輔弼のオーバイの力に衰えはいささかも見られなかった。

       親政を始めてから二年、康熙帝は皇太后と叔父ソエトの支援の下、

      少年によるモンゴル相撲にことよせて、政治には無関心の風を装い

      その場にオーバイを招き寄せた。

       オーバイが、少年のことと油断していたそのすきを窺い少年らに

      捕縛させ、後には終身刑に処した。

       ここに於いて、康熙帝の実質的親政が始まった。

       おもな功績は、三藩の乱の平定、台湾の討伐、ロシアとの国境

      の策定。

       また学術を奨励し、清王朝の黄金期の基礎を確立した。

       ※ オーバイ(オボイとも)は、太祖ヌルハチの腹心として活躍した

        武人で、順治帝の遺詔により康熙帝の補佐役としてスクサハ・

        エビルン・ソニンと共に任ぜられた。

         彼等は日ならずして権力争いをしてオーバイが専権を確立した。

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    中国通史で辿る名言・故事探訪(辛亥革命)

     「辛亥革命」

                        清朝末期

      宣統三年(1911年) 辛亥の年、革命勢力が清朝を倒して

     「中華民国」を樹立した民主主義革命を辛亥年に因んで辛亥革命と

     いう。

      1910年3月、武昌蜂起に始まり、翌年1月には孫文を臨時大総統

     とする南京臨時政府が成立した。

      清朝最後の皇帝となった12代宣統帝(愛新覚羅溥儀)は退位して、

     ここに「清国」は滅亡した。

      だが革命勢力は弱体であったし、うち続く各地での内戦や外国勢力

     の介入を未然に防止すべく北洋軍閥の袁世凱と妥協し、袁世凱も

     共和政府の樹立に同意したので、ここにおいて彼を大総統に任じた。

      ところが1916年、袁世凱が急死し、後継体制を巡って大総統・

     黎元洪(れいげんこう)と国務総理・段祺瑞(きずい)の政治的対立が

     生じた。

      黎元洪が段祺瑞を抑えようと、張勲の軍隊を利用しようとしたところ、

     何と清朝に忠実であった張勲は、1197年7月、前皇帝の溥儀の復辟

     (いわゆる皇帝返り咲き)を図った。

      だが結局 段祺瑞の巻き返しにあって、結局 11日間で退位を余儀

     なくされた。

      溥儀は退位はしたものの、紫禁城に住むことは許された。追放される

     のは1924年11月5日である。

      ところが、溥儀は日本の満州駐屯の関東軍により、三度 皇帝に担が

     れた。所謂 傀儡皇帝で「満州国皇帝溥儀」といわれるその人である。



      

    テーマ : 歴史
    ジャンル : 学問・文化・芸術

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    tyouseimaru

    Author:tyouseimaru
    出身地は四国八十八か所参りの発心の阿波、大阪を終の棲家とする。
    歴史好きで、城郭・神社仏閣・歴史遺跡巡りが趣味となる。
    歴史小説や時代小説を好み、往年の著名な時代小説の類は概ね完読と、自負している。

    自薦
    自著「中国通史で辿る名言・故事探訪」の 上・中・下の3巻を、 近い内に「電子書籍」での出版を予定しています。 今年一年間は、さらに工夫を加えるなどして、補記訂正などの校正を第一義としています。       
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