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    中国通史で辿る名言・故事探訪(英察強能の君たりと雖も、)

     「英察強能の君たりと雖も、

        権術を以って苛察をなす。」


                        清朝

      清王朝の第五代雍正帝は、英明且つ有能な皇帝との評があった。

      しかしその皇帝権力を最大限に操って臣下に臨み、且つその

     政治は苛酷に過ぎる、とも評された。 

      康煕61年(1772年)に第4代康熙帝が崩ずるや、その遺詔により

     康熙帝の第4子の愛新覚羅胤禛が45歳で即位。

      雍正帝は皇帝の最高諮問機関として、雍正7年(1723年)に

     「軍機処」を設置し、数名の軍機大臣を置く。

      独裁権力を確立して末端まで威令を貫徹し、官吏の綱紀を徹底的

     に粛清した。

      方や地丁銀制を普及させ財政を安定充実させ、後には靑海や

     チベットを討ち清朝の支配地を大いに拡大させ清朝の基礎を

     築いた。

      雍正帝が汚職を憎むのは、康熙帝と同じであるが、自らはひたすら

     政務に精励して大いに歓迎された。

      その一方では汚職に慣れ育ってきた科挙出身の官僚らからは、

      「英察強能の君たりと雖も、権術を以って苛察をなす」

      と、その政治は酷薄に過ぎるとの批判を受けた。

      官僚が皇帝に意見を述べるには、公式な手続きを経て奏上するのが

     慣わしであったが、これを題奏といった。

      ところが先代の康熙帝は、公式の手続きによらず、官僚が直接

     皇帝に密奏できる道を開いた。これを摺奏(しゅうそう)という。

      康熙帝の跡を継いだ雍正帝は、この摺奏を重んじ自らも朱書で以って

     摺奏に意見を附して改めて指示を与えたといわれる。

      従って皇帝のその処理に要する時間は、途方もないものであったが、

     その反面 強力な君主独裁制を確立することが可能となった。

      また雍正帝は仏教に関心を示し、奴隷を解放して制度としての

     奴隷階級を一応は消滅させたともいわれる。

      その一方 政治批判の強い文人らには弾圧を以ってし、発禁処分

     にしたり文字獄をも招来した。

      
      

    テーマ : 中国古典・名言
    ジャンル : 学問・文化・芸術

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    中国通史で辿る名言・故事探訪(一事の謹み)

      「一事を謹まざれば四海の憂いを貽(のこ)し、

      一事を謹まざれば千百世の患いを貽す。」


                        清代

      事細かな事でも疎かにすれば、それがいつかは国家の憂いとなり、

     やがて将来の禍となろう。

      清王朝の第4代皇帝・康熙(こうき)帝の晩年の述懐である。

      康熙帝は謂う、

      「それ故 朕はどんな細事も疎かにはしなかった。

      今 処理すべきことは今すべきであり、明日もまた然り。

      日々 安閑として過ごせば、それだけ大きな附けとなって返って
      
     くるものである」と。

        ☞ 千百世とは、数え切れない未来永劫。

      康熙帝は順治帝(3代)の三男で、名は玄燁(げんよう)。

      八歳で即位するも、順治帝に遺詔により補佐役としてスクサハ、

     オーバイ、エビルン、ソニンらが就けられ合議制が採られた。

      ところが康熙六年(一六六七年)ソニンが死去するや、

     スクサハとオーバイが主導権争いを繰りひろげた。

      この抗争は、スクサハ一族の粛清という形で決着がつき、

     オーバイの専権が確立した。

      ※ オーバイ(姓はグワルギャ)は、太祖ヌルハチの腹心として

       活躍した武将。

      だが康熙八年になると、康熙帝はソニンの遺子・ソンゴトゥと

     謀って、モンゴル相撲にかこつけてオーバイを捕縛し専権の座

     から降ろして、十五歳になった時から親政を始めた。

      康熙帝の在位期間は六十一年に及び、中国の歴代皇帝の中でも

     最長を誇り、また名君中の名君でもある。

      廟号は聖祖。これもまた歴代皇帝で、「聖」の字が付く唯一の人。

      「聖」は、聖天子の孔子と云われるように 「聖人孔子」にのみ

     認められてきた称号でもあった。

      
      

      

        

      

      

    テーマ : 中国古典・名言
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    中国通史で辿る名言・故事(庚戍の変)

     「庚戍の変」


                         明代

      十五世紀後半 明王朝の弘治・正徳年間、モンゴルにおいては

     1487年、チンギスハーンの末裔を称するダヤン干(本名は

     バド・モンケ)がモンゴル南方(現在の内モンゴル)を平定して新しい

     支配体制を敷いた。

      その領域を左右に分かち、自らと長子のトロ・ボラトは左翼を守り、

     第三子のバルス・ボラトを副王にして右翼を守らせた。

      その後、左翼のダヤン干と後継者たる長子のトロ・ボラトが相次い

     で没するに及び、左翼は振るわなくなったが、右翼はますます強大

     化し、第四子のアルス・ボラトの長子のグン・ビリクが後継者になる。

      そして、その弟のアルタンとグンドレンがよく兄を援けた。

      嘉靖帝の頃から、アルタンらは明朝の北辺に侵寇を繰り返すように

     なった。

      これを何時しか、明王朝にとっての『北慮』というようになる。

      嘉靖二十一年(1542年)になると、内陸部の山西地方に侵寇し、

     一カ月以上にわたって略奪を繰り返した。

      住民ら二十余万人を殺戮し、家屋を焼くこと八万戸、家畜 

     二百万頭を掠め盗った。

      その後もアルタン・ハーンの軍勢の侵寇は連年にわたり、特に

     嘉靖二十九年(1550年)には、古北口から侵入して北京城を包囲

     すること数日に及んだ。明王朝が莫大な費用をかけて再構築した

     「万里の長城」は全く防衛の機能を果たさなかった。

      明王朝は、当に風前の灯火となるかに見えたという。

      このアルタン・ハーンの侵寇を庚戍(こうじゅつ)の変という。


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    テーマ : 歴史
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    中国通史で辿る名言・故事探訪(奪情起復)

     「奪情起復」

                        明代

      世情の自分に対する評判などに気をかけず、官職に留まったり

     また復帰すること。

      中国では古来から、官僚は親の死に際しては、一旦 その職を

     辞して郷里に帰り、服喪すべきとする重い仕来たりがあった。

      破綻に瀕した明王朝の財政的大改革を成功に導いた張居正の

     死後、彼の専断ともいえる政策実施に対して、密かに批判の声が

     上がり始めた。

      とりわけ高級官僚や隠田を摘発され没収された旧大土地所有者ら

     の不満は一気に爆発した

      しかしその不平不満の存念を表向きに表明することは憚れたので、

     張居正の個人的な過去の「非人情」を標的にして追求し、厳しく批判

     した。

      その非人情たるや、今を遡ること万暦五年(1577年)九月に、

     張居正の父が亡くなったが、張居正は国政の大事を理由にして

     大学士・首輔の地位に留まって帰郷しなかったという経緯があった。

      彼にしてみれば帰郷して服喪中に反対勢力が勢いを盛り返し、

     せっかく軌道に乗った諸政策が破綻することを危惧したからであった。

      さらに悪いことに、彼の服喪期間中に万暦帝(14代皇帝。廟号は

     神宗)の婚儀が行われたが、彼は一旦 喪服を脱いで、礼服に着替え

     てから参列したことがやり玉に挙げられた。

      今となっては彼らに世情の声援も加わり、「奪情起復」だとして痛烈に

     批判されることとなった。

      かくなる事態となっては、張居正を師傅として崇めていた万暦帝も

     態度を改めざるを得なくなった。

      彼に与えられていた諡号や官位も剥奪され、さらに貨財没収・家族

     は辺境に流されるという過酷な処分となった。

      彼の生前の峻厳な施策が禍となったわけだが、彼の財政政策は

     概ね後の清朝に引き継がれることになる。

      しかし清朝でも、全国の田畑などの土地の広さの測量 即ち「丈量」

     はその必要性を認めながらも、実施されることは絶えてなかった、

     出来なかったというのが現実である。




      

      
      

      

    テーマ : 中国古典・名言
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    中国通史で辿る名言・故事探訪

     崔後渠の六然(りくぜん)

                        明代

      崔後渠の信条たるべき六つの格言をいう。

      明朝の11代武宗(正徳帝)の御世、悪名高き宦官・劉謹が

     権勢を揮い、己を誹謗したり気に入らない者は容赦なく左遷させ

     たり、投獄するという傍若無人振りであった。

      時に硬骨の諫官の崔銑が、憚ることなく劉謹の行状を厳しく糾弾

     した。

      だが聞く耳を持たぬ劉謹は、世間体に羞じ入ることもなく崔銑

     (後渠とも)を投獄した。

      時に朱子学を研鑽していた若き気鋭の官僚学者・王陽明は、その

     措置を黙視できなくなり、王朝正義の官僚たるべき諫官・崔銑の投獄

     を手厳しく批判した。

      だが王陽明は、力及ばず逮捕投獄の憂き目をみることになった。

     ☆  「崔後渠(崔銑)の六然」

         自処超然

            自らのことに関しては、世俗の物事に捉われない。  

         処人藹然(あいぜん)

            人に接しては、相手を楽しませ心地よくする。

            ☞ 藹然とは、まめまめしい様。  

         有事斬然(ざんぜん)

            事ある時は、くずぐずしないで厳しくする。

            ☞ 斬然とは、際立っている様。

          無事澄然(ちょうぜん)

            何事も無い時は、水のように澄んだ気でいる。

          得意澹然(たんぜん)

            得意な時ほど、静かに淡々たる気でいること。

            ☞ 澹然とは、物事にこだわらない様。

          失意泰然

            失意の時でも、泰然自若としている。


     

       

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    テーマ : 中国古典・名言
    ジャンル : 学問・文化・芸術

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    Author:tyouseimaru
    出身地は四国八十八か所参りの発心の阿波、大阪を終の棲家とする。
    歴史好きで、城郭・神社仏閣・歴史遺跡巡りが趣味となる。
    歴史小説や時代小説を好み、往年の著名な時代小説の類は概ね完読と、自負している。

    自薦
    自著「中国通史で辿る名言・故事探訪」の 上・中・下の3巻を、 近い内に「電子書籍」での出版を予定しています。 今年一年間は、さらに工夫を加えるなどして、補記訂正などの校正を第一義としています。       
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