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    中国通史で辿る名言・故事探訪(先軫の死)

     「晋の襄公、箕(き)に狄を破る」

    東周王朝

      紀元前627年、殽(こう)で秦と晋が戦った年の八月戊子(25日)、

     白狄が晋を伐ち箕(き)に進出して来た。

      晋侯はこれを箕に迎え撃ち、郤縠(穀)は白狄の君を捕獲した。

      この戦いで従軍していた先軫は、

      「先の殽の戦いの折、臣たる身が君に当たり散らす不敬の行いを

     したが、しかし君からは何のお咎めも無かった。

      この上は進んで自分を罰せねばならぬ」と言って、甲冑を脱いで

     狄軍に突入し討死してしまった。

      戦いが終わって戻ると、先軫の首が狄から返されて来たが、襄公は

     三命により先軫の子・先且居(しょきょ)を中軍の将に任命し、再命に

     よって先茅のものであった県を先代文公に郤缺を推挙した臼季に

     感謝の意を込めて賞として与えた。

      また一命によって、郤缺を卿に任命し改めてその故地の冀(き)に封じ

     たが、軍職は未だ担当させなかった。

                         「春秋左氏伝 僖公三十三年」



      ☷ 拾遺・弥縫

        「三命」とは、周代の制であり君侯の上奏により、改めて天子から

       大国或いは次国の卿大夫に任命されることをいう。

        なお、「一命」とは、初めて正式の官職に任命されることをいう。

      

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    中国通史で辿る名言・故事探訪(文公崩ず)

     「覇者・晋の文公崩ず」

                          東周王朝
     
     晋の文公九年(紀元前628年)、その冬十二月己卯(16日)、

    文公が崩じた。

     文公は紀元前629年の秋、諸侯に魁て清原で軍の勢揃いを

    行った。

     これを「三行(さんこう)」といい、歩兵部隊を編成した軍団であった。

     これは国土防衛の戦略上の必要に迫られて、従前からある戦車部隊

    とは別に編成したものであった。

     晋では先代の君侯である恵公以来の土地改革政策を継承発展させて

    公田・公地を大いに増やして、戦時には歩兵として転用できる自作農を

    育成するという背景があった。

     文公の時代となってからは、荀林父(りんほ)が中行の将、先縠が右行、

    先蔑が左行の将となった。そして重鎮の 趙衰は卿に任ぜられた。

     晋は以後 約百年間は、事実上の中原の覇者の国として君臨すること

    となる。

      文公の公子・歓が、父の崩御に伴い即位した。

      即位の期間は短かったが、名君で知られる二十三代襄公である。

      殽の戦いで秦に勝利し、衛を討ち、彭衙で再び秦を破りさらに親征

     して敵を破るなど覇者たるべき働きをしたが、如何せん短命であった。

                     「春秋左氏伝 僖公三十一年」

     

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    中国通史で辿る名言・故事探訪(晋・文公の復讐戦)

     「鄭君を得て甘心せん」

                       東周王朝

      晋の文公七年(紀元前630年)の九月甲午(一日)、文公は晋の

     穆公と連合して鄭を包囲攻撃した。

      討伐の理由としては、かつて亡命の途中に立ち寄った鄭国で、

     文公(重耳)を冷遇したことと城濮の戦いで楚に味方したことが挙げ

     られた。

      鄭の都を包囲した文公は、鄭の大夫・叔瞻(しゅくせん)の身柄を

     要求した。

      叔瞻は重耳主従が流浪中、鄭都に立ち寄った時に、主たる鄭君に

     重耳を礼遇しないのであれば、後顧の憂いをなくするために重耳を亡き

     者にせよと、進言したことがあった。

      叔瞻は要求の経緯を耳にするや、自ら命を断った。

      鄭ではその屍を晋の陣営に届けて赦しを請うたが、晋では素気無く

     突っぱねた。

      曰く、「必ずや鄭君を得て甘心せん」と。

      (=きっと鄭君を捕虜となし、この忌々しい我が思いが晴れるまで

       思う存分にしようぞ。)

      一方では鄭の文公(鄭伯)は怖れをなして、燭之武(しょくしぶ)という

     老臣を密かに秦の陣営に派遣して、好条件を手土産に説得させた。

      燭之武曰く、

      「鄭を滅ぼして晋に篤くするは、晋においては得なれども秦は未だ利

     となさず。

      君 なんぞ鄭を解き、東道の交となすを得ざる」と。

      (=鄭を滅ぼさずに、秦が東方へ行く際の接待役とさせた方が秦に

       とっては得策ですぞ。)

       ※ 晋・鄭・秦の地理的状況は、秦が西方に晋は東方にあり、

         鄭はその中間にあった。

        「東道の交」

          「東道主人」ともいう。

          客を案内してもてなす主人のこと。

       晋の穆公は悦んで鄭と盟約を結び、大夫の杞子、逢孫、揚孫の

      三人を留めて鄭を守らせ、自らは軍を率いて本国に引き揚げた。

       晋の子犯は、憤り晋軍を追撃すべきことを進言したが、文公はそれ

      を推し止めて、

       「秦君の援けなかりせば、今の我は無し。

       人から力を借りてその人を損なっては、不仁というもの。

       良い味方をむざむざ無くすのは、愚人の為すこと。

       せっかく収まった秦・鄭の仲をまた乱すのは武の道に非ず」と。

       かくして、文公も已む無く撤兵した。

                       「春秋左氏伝 僖公三十年」




      

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    中国通史で辿る名言・故事探訪(郤氏の復活)

     「敬いて相待つこと賓の如し」


                     東周王朝

      ある日のこと、冀(き)に逼塞していた晋の郤缺(げきけつ。郤成子、

     冀缺とも)が田野に出て雑草を刈り、彼の妻がその食事を用意する姿

     があった。

      彼らのその姿や態度、仕草たるや、当に賓客を迎えての接待である

     ような恭敬なものであった。

      その二人の不思議な光景に目を止めた者がいた。

      晋の文公の股肱の臣でまた重臣でもあった臼季(きゅうき。胥臣とも)

     である。

      思えば夫婦のようでありながら互いに敬い、まるで賓客を遇し合って

     いるような光景に接して、臼季は興味を覚えた。

      二人に近寄って見ると、なんとその正体が文公暗殺を企てたことの

     ある今は亡き郤芮(げきぜい)、その子の郤缺であることを知り、臼季は

     さらに驚かされた。

      だがこの時期には晋は、既に国内を完全に統一し、対外的に活動する

     時期に至っていたので、臼季は強いて言えば郤缺ら謀反人の追求者で

     はなかった。

      その後 臼季は郤缺を伴って文王に帰朝報告したが、その際に

     郤缺を推挙した。

      文公は、不機嫌な顔をして承知しようとしなかった。

      「あれの父(郤芮)には、罪(文公の暗殺を謀った経緯)がある。

       それでも良いというのか」と。

      だが臼季は引き下がらず、古の聖人舜と斉の桓公の故事を引き合い

     にして、即ち罪ある者の子を許したり、罪ある本人を許したという例を

     挙げて説得し、

      さらに康誥(書経の篇)を引き合いに出して説得した。

      「父は慈(いつく)しまず、子は親を敬わず、兄は弟を憐れまず、

      弟は兄に仕えざるも、其の罪 相及ぼすものならず」と。

      また詩(詩経)に曰く、

         葑(かぶ)の葉を摘み、韮の葉を摘む。

         根の悪しきとて、葉は棄つるなかれ。

      郤芮の子であるとはいえ、郤缺には優れた資質がございますので、

     捨て置かれませんように。

      臣はこのようにも聞きます、

      「門を出ずるに賓の如く、事を承るに祭りの如くなるは、仁の則なり」と。

      その説得に流石の文公も折れて、郤缺を取り立ててえ、下軍の大夫に

     任じた。

                 「国語 晋語」、「春秋左氏伝 僖公三十三年」 

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    中国通史で辿る名言・故事探訪(城濮の戦い)

     「城濮の戦い その4」

                        春秋時代

      四月戊申(5日) 尽くすべき措置を終わった晋は、直ちに宋・斉・秦と

     四カ国連合軍を編制し、子玉の率いる楚の連合軍を城濮(衛の地)

     で迎えた。

      楚軍は子玉がその一族の六卒を中軍に編入して総指揮をなし、右軍

     には同盟国の陳・蔡軍を編入して子上(闘勃)が将となり、左軍は子西

     (闘宜申)が率いた。

      楚の連合軍は、険しい丘陵を背にしての宿営であった。

      そのあり様から晋公は心配して、開戦の意を決しかねているようで

     あったので、子犯は激励して、

      「ここは戦うべきです。戦って勝てば必ず諸侯は付いてきます。

      たとえ勝てなくても、晋の山河を表裏にすれば必ず害なけん」と。

      晋公が、

      「かって楚で受けた恩義はどうするか」と言うと、

      今度は欒枝(らんし)が応えて、

      「漢水以北の我らと同姓の姫姓諸国は、楚がすべて滅ぼしたのです。

      小さな恩義に拘って、受けた大きな屈辱をお忘れなきように」と。

      「楚と晋の宣戦の口上」

      決戦に先立ち楚軍を指揮する子玉は、子上を宣戦布告の使者として

     晋の陣営に派遣して言わしめた。

      「請う君の士と戯れん。

      君 軾(しょく)に馮(よ)りて之を観よ。

      得臣(子玉の名)も与かりて目を寓(よ)せん」と。

      (=君は指揮車で見物でもなされよ。我もお供して見物いたしま

       しょう。)

      文公は欒枝に応対させて言わしめた。

      「寡君 命(宣戦の口上)を聞けり。

      楚君の恵み未だ之を敢えて忘れず。

      是を以って此れに在り。

      (=恩を忘れぬ故にこそ、三舎を避けてここに陣したのだ。)

      大夫(楚の子上)の為にも退きたり。其れ敢えて君に当たらんや。

      既に命を獲(え)ざれば、敢えて大夫を煩わす。

      (=しかし既に宣戦の口上を受けたからには、お相手致しましょう。)

      二三子に謂え、汝の車乗を戒め、汝の君事を敬せよ。

      (=ご一統に伝えられよ。兵車の御と乗者をよく戒め、最善を尽く

       させよ。)

       ※ 二三子とは、君主が諸侯に対しての「呼びかけの)常套語。

      詰朝(明朝) まさに相見えんとす」と。

      晋の兵車七百乗は既に準備を完了していた。

      文公は有莘(古代の国)の廃墟に上り、自軍の軍勢を観て断じて

     曰く、

      「かほど統制が取れておれば、十分戦えるぞ」と。

      「決戦」

      翌日の己巳(6日) 先ず晋軍から下軍の副将胥臣が精鋭部隊を

     率いて撃って出て、楚陣の右翼を受け持つ陳・蔡勢に襲い掛かった。

      楚の右翼軍が完膚なきまでに壊滅しても、子玉は意に介せず、三軍を

     並行させて出撃した。

      晋軍はそれぞれに真っ向から激突させた。

      だが楚王に兵力を削減されたとはいえ、楚軍は数においては晋軍を

     凌駕していたので、次第に押し返されるようになった。

      晋軍では将たる狐毛の上軍と同じく将たる欒枝の下軍が、粉じんを

     蹴上げつつ敗北を装って後退した。

      之を見た楚軍は、全軍挙げて一斉に追撃態勢に移った。

      ところが晋の中軍は自陣に踏みとどまり、楚の猛攻に耐えてよく陣を

     死守した。

      そこを見計らって、晋の上下両軍は急ぎ兵車や歩兵の向きを反転させ、

     二手に分かれて楚軍の両翼を挟撃した。

      ここに至って、楚の中軍を率いた子玉のみ辛うじて持ち堪えたが、楚の

     敗北は既に確定したので子玉は兵を収めて去った。

      「拾遺・弥縫」

      城濮の戦いは、「春秋の五大会戦」の一つであるが、たった一日の決戦

     で決着のついた会戦であり、余りにもあっけない幕切れであった。

      戦場となった城濮は、黄河の氾濫原が広がってできた大地であり、当に

     戦車戦に適した戦場であった。

      この戦いに投入された戦車は晋軍は七百乗、楚軍はそれ以上の戦車

     を以って戦ったとされるが、その兵車の操縦練度と全軍の運用指揮能力は

     晋軍が格段に優っていたとされる。

                   「春秋左氏伝 僖公二十七年・二十八年」 

                   「史記 晋世家」

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    tyouseimaru

    Author:tyouseimaru
    出身地は四国八十八か所参りの発心の阿波、大阪を終の棲家とする。
    歴史好きで、城郭・神社仏閣・歴史遺跡巡りが趣味となる。
    歴史小説や時代小説を好み、往年の著名な時代小説の類は概ね完読と、自負している。

    自薦
    自著「中国通史で辿る名言・故事探訪」の 上・中・下の3巻を、 近い内に「電子書籍」での出版を予定しています。 今年一年間は、さらに工夫を加えるなどして、補記訂正などの校正を第一義としています。       
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