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    中国通史で辿る名言・故事探訪(匹夫 罪無し)

     「匹夫 罪無し、玉を懐いて其れ罪あり」

                        春秋時代

      魯の桓公十年(前702年)春、初め虞国の虞叔は、世にも稀な玉を

     保有していた。

      虞叔の兄であり君侯の虞公は、弟に之を求めた。

      だが虞叔は、その時は献上しなかった。

      ところが虞叔は、やがてそのことを後悔し始めて謂った。

      「周諺(周の諺)、之有り。

      『匹夫罪無し、玉を懐いて其れ罪あり』と。

      ※ 平凡な民は本来はいわれなき殃いは無縁のものだが、

        身分不相応な宝玉を持つと、殃を呼び寄せる。

      吾なんぞ此れを用いん。其れ以って害を賈(か)うなり」と。

      即ち潔く献上した。

      すると、今度は宝剣を求められた。

      虞叔曰く、

      「是れ厭くこと無きなり。厭くこと無くんば、将に吾に及ばんとす」と。

      (=兄は満足ということを知らない。満足を知らなければ、その内 

       吾が命にも及ぶであろう。)

      遂に来たるべき将来のことを危惧して、虞叔は先手を打って兄の虞公を

     攻めたてたので、虞公は共地へ逃亡した。

                        「春秋左氏伝 桓公十年」

    テーマ : 中国古典・名言
    ジャンル : 学問・文化・芸術

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    中国通史で辿る名言・故事探訪(速杞の戦い)

     「楚は左を上位にす」

                        春秋時代

      隋の少師には、国君の寵愛一方ならぬものがあったという。

      そのあり様を聞くにつけ、楚の闘伯比は隋の攻伐を進言した。

      東周桓王十七年(紀元前704年)夏、楚の武王は諸侯を楚の沈鹿

     に招集したが、黄と随は参集しなかった。

      武王は、イ章を黄に遣わして攻め、また王自らは軍を率いて随を伐ち、

     漢水と淮水の間に軍を進めた。

      その様子から随の杞梁は、随侯に進言した。

      「ここは、一旦 降伏しましょう。許されなかったなら、戦いましょう。

      之は我が軍の士気を高め、敵軍を侮らせる策と申せます」と。

      ところが少師は、

      「必ずや速やかに戦わん。然らずんば、将に楚の師を失わんとす」と。

        ※ ここで失うとは、逃がしてしまうの意。

      かくして随侯は楚軍を禦(ふせ)ごうとして、楚の陣営を見渡した。

      季梁は言う、
      
      「楚は左を上位にす。楚君は必ず左翼に在ります。この際、楚王に

     当たってはなりません。

      しばらく、楚軍の右翼を攻めればよろしい。右には精鋭はおりません。

      必ず破ることが出来ます。右翼が破れると、楚軍は離散しましょう」と。

      だが手柄を焦る少師は、

      「王の軍に当たらねば、戦ったことにはなりません」と言って、従おう

     としなかった。

      かくして、速杞において両軍は激突した。

      だが随の軍は大敗を喫し、随侯は逃げ去った。

      その一方では楚の闘丹は、随侯の車とその車右となっていた少師を

     捕獲した。

      その年の秋、随は楚と和睦しようとしたが、楚王はそれを許そうとは

     しなかった。

      すると闘伯比は進言した。

      「天は、随の疾患(少師のこと)を取り除いてしまいました。

      もはや随に克つことは出来ません」と。

      そこで両国は盟を結び、楚は帰還した。

                       「春秋左氏伝 桓公八年」



     

      

    テーマ : 中国古典・名言
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    中国通史で辿る名言・故事探訪(楚の熊通、王を称す)

     「我、自ら尊くせんのみ」


                        春秋時代

      18代楚王の熊通(ゆうとう)は、周・桓王十五年(前706年)に

     周王朝の同族である「隋国」を攻めたが、その一方では周王朝に

     自らの高位の爵位を要求した。

        ※ 楚国は当時においては、子爵の国であった。

      ところが朝廷にその願いを一蹴されたので、

      「我、自ら尊くせんのみ」と称して、久しぶりに荊蛮(未発展)時代の

     王号を自称し、武王を名乗るようになった。

      小の能く大に敵するは、

      小は道ありて、大は淫なればなり。 



       楚の武王は隋に侵攻した後、大夫・イ章に和睦交渉を命じ、隋の

      瑕という地に軍を駐留してその結果を待った。

       一方 隋では大夫の少師をその役に当てた。

       楚の側では和睦交渉の結果を待つ間、大夫の闘伯比が武王に

      進言した。

       「我が楚が漢東の諸国に威勢を揮うことが出来ないのは、軍事力

      を背景にして接するからであり、彼らはその為に恐れを為して隋を

      頼りにし、互いに協力して我が国に当たろうとするからです。

       漢東では隋は強国を自認していますが、その隋が尊大になれば、

      必ずや小国は離反致しましょう。さすれば、楚国の幸いとなります。

       聞くところ、隋の少師は、君の恩寵を頼りにして驕り昂ぶっている

      ので、故意に我が楚軍の弱体ぶりを見せつけておけば、図に乗って

      まいりましょう」と。

       すると大夫の能率且比(しょひ)が、反対して、

       「季梁在り。何の益かあらん」と。

      闘伯比は、

      「私の計は、後になってからのものです。少師は君の信を得ている

     ので、きっとこの計がものをいうときが来ます」と。

      武王は闘伯比の進言を採り、軍勢を削減してから少師を軍営に

     導き入れ、その弱体ぶりを見せつけた。

      果たして少師は自陣に還るや、楚軍の追撃を君に請うた。

      随会が之を許そうとすると、側にいた季梁が之を止めて曰く、

      「天 方(まさ)に楚に授く。楚の羸(るい。弱体ぶり)は、それ我を

     誘うなり。君なんぞ急にせん。

      臣 聞く、

      小の能く大に敵するは、小は道ありて大は淫なればなり、と。

      所謂 道とは民に忠にして神に信あるなり。上(かみ)民を利せん

     ことを思うは、忠なり。

      祝史(神官) 辞(祭祀での告文)を正しくするは、信なり。

      今、民 飢えて君 欲を逞しくし、祝史 矯挙(事実を偽って飾り

     立てること)して以って祀る。民その可なるを知らざるなり」と。

      それに対して随公は、

      「神に供える犠牲も黍稷(キビモチとモチキビ)も何不足することも

     なく敬虔でさえあるのに、どうして神を偽ろうぞ」と反論した。

      季梁は、

      「夫れ民は、神の主なり。是を以って聖王は先ず民を成して(生活

     を豊かにし)、しかる後に力を神に致す(よくお勤めすること)。

      即ち、犠牲を奉げるに「博碩肥腯」、盛を奉げるに「潔粢豊盛 」、

     酒醴(しゅらい)を奉げるに「嘉栗旨酒」と言って、お告げをするのです。

      ※ 博碩肥腯(はくせきひとつ)とは、あまねく大きく肥え太っている

        こと。

        潔粢豊盛(けっしほうせい)とは、清らかな穀物を祭器一杯にして。 

        嘉栗旨酒(かりつししゅ)とは、よく熟成した美味しい酒。

      その意は、上の者も下の者も、皆 邪心莫しということです。

      だから君たる者は、農事の春・夏・秋の三時を大事にし、五教の教え

     を修め、九族(自分を中心にしての五親等の親族)に親しみ、然る後に

     神を祀ります。

      是において、民は和して、神 これに福を降す。故に動けば、即ち

     成すこと有り。

      今や民の心は一致せず生活にも困窮して、神の主である民は、

     少なくなっております。

      君独り豊かなりと雖も、それ何の福か之れあらん。

      君しばらく政を修めて、兄弟の国を親しめば、請い願わくば難を

     免れん」と。

      随侯 懼れて政を修む。楚 敢えて伐たず。

                       「春秋左氏伝 桓公六年」




     
       

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    中国通史で辿る名言・故事探訪(菟裘)

     「菟裘」

                        春秋時代

      菟裘(ときゅう)は、魯の隠公の隠居しようとした地名である。

      転じて、官職を退いて隠居する地のことを謂う。

      魯・隠公十一年(前712年)冬、恵公(13代)の嫡子・允(軌とも)

     は、公子の羽父(公子翬⦅き⦆)に唆されて、すでに退位を決意していた

     異母兄の隠公(14代)を殺させて自立した。

      隠公十一年のある日のこと、魯の公子羽父が隠公に対して、太子の

     地位にある允を殺害すべきことを申し出た。

      羽父にはそれによって隠公の信任を得て、太宰の地位を得ようとする

     野望があったのである。

      公子羽父の大子殺害教唆に対して、隠公は憮然として言い放った。

      「其の少(わか)きが為の故なり。吾 将に之を援けんとす。

      菟裘に営ましめ、吾 将に老いんとす」、と言って厳しく拒絶した。

      (=自分が君位に就いたのは、そもそも允が幼少であったからで、

       之を援けようとしただけだ。

       だから、そろそろ君位を允に譲り、菟裘の地に邸宅でも構えて、

      隠退しようと思う。)

       事ここに至り、羽父の思惑は完全に外れてしまった。

       隠公が隠退し允が即位すれば、何れの日か己の命が危うくなると

      危惧し、羽父は咄嗟に大子允の下に奔り、隠公を誹謗中傷して、今

      の内に弑殺すべきことを進言した。

       隠公が鍾巫の祭礼を催して、先ず社圃(社の森)で潔斎して大夫の

      イ氏の所に宿っているところを、羽父と壬辰が賊を使役して隠公を弑い

      せしめた。

        ※ 隠公が公子の時代に、郵と孤壌で戦ったことがあったが、

          捕らわれて一時、尹氏の下に留め置かれたことがあった。

           鍾巫はその尹氏の守り神であり、隠公は解放された後、この

          尹氏の鍾巫を尊崇するようになっていた。

       やがて魯の桓公元年(前711年)春、太子允が隠公の後を継いで

      即位した。これが桓公である。

       羽父は、隠公の死の責任をイ氏になすり付けてこれを討ち、何者か

      を犯人に仕立てて、誅殺した。

       このような事情もあり、結局 隠公の正式な葬礼は営まれることは

      無かった。

       そして桓公三年に、羽父は念願の宰相に任ぜられた。

                         「春秋左氏伝 隠公十一年」 




       


      

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    中国通史で辿る名言・故事探訪(国の宝)

     「仁者に親しみ隣国に良く付き合うは、国の宝なり」

                        春秋時代

      鄭、陳を侵奪する      紀元前717年

      魯の隠公六年(紀元前717)五月の庚申(二十七日)、鄭が陳を

     攻めて多くの戦果を挙げた。

      これより先、今回とは逆に陳が鄭を攻めて、鄭が和を請うて来たことが

     あったが、陳は許さなかった。

      時に陳公の弟の五父は兄を諌めて、進言した。

      「仁者に親しみ隣国に良く付き合うは、国の宝なり。

     鄭に和を許すべし」、
    と。

      だが、陳公は取り合わなかった。

      陳は今にして、鄭に屈辱を味わうことになったのである。

      君子は言う、
      
      「善を為す機を失わず、悪を長ずる莫れとは、それこそ陳の桓公の

     ことを言うのであろう。

      悪を長じて改めずにいれば、やがて吾が身に禍が降りてかかる。

      そうなって助かろうと望んでも、どうして助かることが出来ようぞ。

      商書(書経 商書篇・盤庚下)に言う、

      『悪の易(やす)きは、火の原に燎(も)ゆるが若く、嚮(むか)い

     彌(ちか)づくべからず。其れ猶、撲滅すべけんや。』

      (=悪のはびこる様は、火の原を焼くようなもので、とても向かい近づく

       ことは出来ない。ましてや、撲滅など出来るものではない。)

      また周王朝初期の賢人史官・周任の言葉にも、

      「国家を治める者は悪いと気の付いたときは、あたかも農夫が

     せっせと草を片っ端から取り除き、根絶やしにして生えないように

     するが如くすべきである。

      それでこそ、善が伸び栄えるものだ」、とあるではないか。

                      「春秋左氏伝 隠公六年」





      

      

      

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    Author:tyouseimaru
    出身地は四国八十八か所参りの発心の阿波、大阪を終の棲家とする。
    歴史好きで、城郭・神社仏閣・歴史遺跡巡りが趣味となる。
    歴史小説や時代小説を好み、往年の著名な時代小説の類は概ね完読と、自負している。

    自薦
    自著「中国通史で辿る名言・故事探訪」の 上・中・下の3巻を、 近い内に「電子書籍」での出版を予定しています。 今年一年間は、さらに工夫を加えるなどして、補記訂正などの校正を第一義としています。       
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