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    中国通史で辿る名言・故事探訪(管蔡の乱)

      「管蔡の乱」

                        周王朝

      「管蔡の乱」は、「禄父の乱」 或いは「三監の乱」ともいう。

      武王が崩じた時 後継者たる誦(しょう)はまだ嬰児であった。

      そこで叔父に当たる周公旦が、誦即ち成王を摂政するようになった。

      だがその内 周公旦の兄弟達の中から、三男の管叔と五男の蔡叔

     が流言を天下にまき散らした。

      曰く、「周公、将に成王に利あらざらんとす」と。

        (=周公旦は、成王を廃して自ら王になろうとしている。)

      そして頃は良しとばかりに、自分たちが世話することになっていた

     前王朝の紂王の子・禄父(ろくほ)を担ぎ出して、自らは東方の蛮夷

     の淮夷(わいい)を率いて反乱を起こした。

      周公旦は、王朝の創建に身命を賭して奔走していたので、その事を

     よく知る太公望や召公奭(せき)は、周公が自分が率先してやるしかない

     という決意を認め且つ納得もしていた。

      だが管叔らとは本格的な戦いとなり、当に内乱状態にな陥り、その

     収束までに三年の長きを要した。

      戦後 禄父と管叔を誅殺し、蔡叔は馬車七輛と従者七十人のみを与え

     て、郭鄰に移して幽閉し、霍叔は庶人の身分に落し、三年は王族の待遇

     を受けさせなかった。

      そして殷の祭祀は、殷の王族たる亡命者・微子啓を宋に封じて建国させ

     執り行わせた。

      また降った殷の多くの遺民対策として、新たに封せられた微子啓の宋と

     武王の末弟・康叔の封ぜられた「衛」に、分割移住させて支配させるよう

     にした。

      ところが猶も周の支配に服することを潔しとしない勢力は、定住する

     ことを欲せず各地を経巡り 交易(行商)を行うことを生業(なりわい)と

     するようになった。

                           「史記」魯周公世家

      ※  幽閉された蔡叔の子・蔡仲は、よく徳を積みその言動は慎み

        深かった。そこで周公は、蔡仲を卿士に取り立て、蔡叔が死んだ

        後は 成王に進言して「蔡」に封じて建国させた。

          また、周の支配に服することを潔しとせず、定住しなかった殷の

         遺民の行商は、「商人」という語の起源となる。

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    中国通史で辿る名言・故事探訪(社右宗左)

      「社右宗左」

                        殷王朝

       国の神位を建つに、社稷を右にし宗廟を左にす。

        (=国家の神殿を建てるに際して、社稷は右に建て、宗廟は

          左に建てるものである。)

          ※ 社稷とは、土地の神(社)と五穀の神(稷)。

             天子や諸侯は建国の時、国家の守り神として社稷を

            祀った。

       また喪国の社は、これに屋して天陽を受けざるなり。

        (=また滅び去った国の社は、上に屋根をかけて太陽が当たら

          ないようにしなければならなかった。)

                         「礼記」王制 

       ※  「春秋義例」

           凡そ邑(ゆう)は、宗廟・先君の主有るを「都」と曰い、

          無きを「邑」と曰う。

            (=およそ町は、国の宗廟や先君の位牌が安置されている

             所は都といい、其れが無い所は邑という。)

           邑には「築く」と曰い、都には「城く」と曰う。

            (=城壁を築くのに、邑であれば築くといい、都であれば

             城くという。)

                        「春秋左氏伝」荘公二十八年 伝

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    中国通史で辿る名言・故事探訪(二つの周都)

     「宗周と成周」


                         周王朝

       受命の君と謂われ評判の高まった西伯昌は、周原と謂われた

      岐山の麓から、「豊邑」の地に遷都した。時に西暦前1039年。

       周という国、すなわち後の周王朝の名はこの周原に由来する。

       その昔、西伯昌は犬戎、密須国を討伐して更には耆(き)国を

      撃破した。

       西伯昌のこの活躍を紂王の忠臣・祖尹(そいん)が警戒するよう

      進言したが、紂王は、

       「天命は我に在り。西伯に何が出来よう」と言って、意にも解し

      なかった。

       西伯昌はその後、太公望を軍師として邘国、崇国を討伐し、遂に豊邑

      に遷都した。そしてその遷都の翌年に世を去った。

                         「史記」周本紀

       「二つの周都 宗周と成周」

       後 武王の時代に豊邑の近くに大規模な国都「鎬京」が建設され、

      西都或いは宗周と呼ばれた。

       さらに成王の時代には、周王朝第二の都として豊邑より東の地に

      洛邑が完成した。

       これが東都或いは成周

      とも呼ばれる。

       だが豊邑は周の祖廟の地として、鎬京と与に「豊鎬の地」とも言わ

      れて重きをなした。

       洛邑は後漢の時代になると、再び国都が置かれ、その名も「洛陽」と

      呼ばれるようになる。


       

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    中国通史で辿る名言・故事探訪(虞芮の争い)

      「虞芮の争い」

                         殷王朝末期

      他を見て我を改めることを云う。

      殷王朝の末期、諸侯国たる「周」の君主である西伯昌は、諸国の人民

     から篤い人望を集めていた。

      時に虞(ぐ)と芮(ぜい)という国が、その田地の所有権を争い、何年

     経っても解決しなかった。

      そこで虞と芮の君は、お互いに解決策を持ちかけた。

      「周の西伯という御仁は、仁人であると聞く。我らその地へ赴き、

     孰れが正しいか質してもらおうではないか」と。

      事は速やかに相決まった。

      そして二人の君が周の国境に入ると、耕す者はお互いに畦道を譲り

     合い、さらにその都に入ると、男女は道を別にし、また白髪交じりの者が

     荷物を提げるということはなかった。

      朝廷の様子は如何にというと、士は大夫の為に譲り、大夫は卿の為に

     譲っているという有り様であった。

      虞と芮の二人の君は言った、

      「ああ、我々は小人だ。これでは君子の朝廷を履むことは出来ない」

      と言って、相携えて朝廷を退き、共々帰国の途に就いた。

      その後、懸案の相争う所の田地をことごとく「閑田」となして、争いを

     自主的に解決した。

                   「孔子家語」・二好生

       所で殷王朝の紂王の暴政は止むことが無く、諸侯は皆争いごとを

      「周」の西伯昌の下に訴え出るようになったが、虞芮の争いの事は

      何時しか諸侯の耳にも達し、

       “西伯昌こそ「受命の君」だ”、と囁き合った。

       西伯昌の死後の諡は「文王」という。

                       「史記」周本紀

       ※ 天の命を受けて、天下に王たるべき者を「受命の君」という。

         天が有徳の人に命を下して、天下を治めさせるという思想であり、

         周の時代に始まる。

          周より以前は、宇宙の支配者である「天帝」の直系の子孫を

         称する者が、天下を治めるという事に正統性が認められた。

       ★  「虞芮の争い」の逸話は、儒家の聖祖と尊崇する西伯昌の徳

         を賛美して、周王朝を正当化する必要から生まれた後代の捏造・

         粉飾されたものだと謂われる。


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    中国通史で辿る名言・故事探訪(覆水は定めて収め難し)

      「覆水は定めて収め難し」

                         殷王朝末期

       「覆水盆に還らず」とも。

       水盆から大地にこぼれ落ちた水は、再び元の盆に戻すことは

      出来ない。

       本義は、一度離婚してしまった夫婦は、再び元の鞘に復し難い

      ことの喩え。

       現代では、一度やってしまったことは取り返しがつかないことの喩え。

       殷王朝の末期のことである。

       太公 初め馬氏を娶る。書を読みて産(家産)を事とせず。

       馬氏去るを求む。 

       太公即ち太公望呂尚は、その生涯の長い期間を読書に励み、家業は

      全く顧みなかった。

       そして時には全国の各地を経巡り、時世を待っていた。

       だが妻の馬氏は、遂にそのような夫に愛想をつかして、その下を

      去った。 

       それから幾星霜が経ったが、呂尚は周王朝の顕官となり斉の国に封ぜ

      られた。

       その事を聞きつけた元の妻は、呂尚に復縁を懇願した。

       太公 水一盆をとり地に傾け、婦をして水を収めしむ。唯 其の泥を

      得たり。

       (=呂尚は元の妻の前で水鉢を手にして地に傾け、馬氏に地中に

        こぼれ落ちた水を戻させたが、ただ水を含んだ泥を得ただけで

        あった。)

       太公曰く、

       「若(もし) 能く離れて更に会う、覆水 定めて収め難し」と。

       (=お前はよくも一度離れて行きながら、再び一緒になろうなどと

        言うが、覆水は元に戻せないのだ。)

                 前秦の時代  王嘉の撰「拾遺記」鶡冠子注




       前秦より後の世 前漢の朱買臣は、若い頃は家が貧しくとも

      日夜 学問に励んでいた。

       山に行っては薪を背負いて読書するほどであったが、妻は貧しさの

      故に夫の下を去る決心をした。

       朱買臣は妻を慰留しようとした。

       「私は五十歳になったら、必ず富貴となろう」と。

       それに対して妻は、

       「あなたに従っていたら、遂には餓死してしまうでしょう」と言って、

      去ってしまった。

       それから幾星霜の後、朱買臣は大器晩成型の出世をして、朝廷の

      顕官となり生地である会稽郡の太守にまで出世した。

       ここに於いて彼は元の妻と再会したが、彼女は貧しい生活をしており、

      そこで朱買臣に復縁を求めた。

       朱買臣は何くれとなく彼女の面倒を見ていたが、元の妻の願いには、

       「覆水は再び良く収めず」と言って応じなかった。

       悲観した元の妻は、それから1カ月後 自ら首を括って死んで

      しまった。

                      「故事成語考・注」

       ※  如上の二つの伝説をもとにして、「覆水、盆に還らず」

         の格言が出来たとも言われる。

        

       

       

    テーマ : 中国古典・名言
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    Author:tyouseimaru
    出身地は四国八十八か所参りの発心の阿波、大阪を終の棲家とする。
    歴史好きで、城郭・神社仏閣・歴史遺跡巡りが趣味となる。
    歴史小説や時代小説を好み、往年の著名な時代小説の類は概ね完読と、自負している。

    自薦
    自著「中国通史で辿る名言・故事探訪」の 上・中・下の3巻を、 近い内に「電子書籍」での出版を予定しています。 今年一年間は、さらに工夫を加えるなどして、補記訂正などの校正を第一義としています。       
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