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    中国通史で辿る名言・故事探訪(史記)

     「秦の商鞅の謀略」

                        戦国時代

      魏が馬梁で斉に大敗を喫した機会を逃さず、秦の商鞅は孝公に進言

     した。

      「馬梁で敗れた今こそ魏を討つ機会です。

      魏は必ずや我が国の攻撃を支えきれず、東に都を移すことになり

     ましょう。

      そうなれば我が国は、天然の山河を要塞にして東方の諸侯を制圧

     することが出来ましょう。

      これこそ帝業と申せます」と。  


      孝公は商鞅を大良造の爵位を授け、彼を将として魏を攻めさせた。

      ※ 大良造: 秦の爵制は「二十等級制」であり、大良造は

                十六等級の官爵大官である。

      そして翌年(紀元前340年)には、斉と趙と盟約して魏に対して共同

     戦線を張った。

      魏の恵王は、公子の卬(こう)を将として大軍で迎え撃とうとした。

      ところが商鞅は、以前に魏にいた時に公子卬とは親交があったので、

     公子卬に書をもたらして斯く言った、

      「お互いに旧友である我らが将となって戦うのは、まことに忍び難い

     ものがある。 

      よって旧交を温め秦・魏の国交を回復すべく、酒肴を共にしようでは

     ありませんか」と。

      公子は何の疑いもなく誘いに応じて、自軍の攻撃態勢を停止し、

     酒宴の場に赴いたのである。

      この公子には有能な幕僚も就いておらず、且つ戦国の世の厳しさ

     の体験や知見もなかったのか、まんまと商鞅の策謀に引っかかって

     しまった。

      商鞅は宴席の会場に伏せておいた兵に公子卬を捕縛させ、油断して

     いた魏軍に抜き打ち的に猛攻撃をかけ魏の主力軍を打ち破った。

      魏の恵王は、秦に使者を立てて河西の地を割譲することで和議を

     結んだ。

      そして商鞅の思惑通り、魏はその後 国都・安邑を支えきれず、遂に

     大梁に遷都することになった。

      恵王は無念やるかたなく嘆くに、

      「寡人 恨むらくは公叔座の言を用いざりし事を」、と。

      方や商鞅は凱旋して、商・於の地の十五邑に封ぜられ「商君」と称せ

     られるようになる。

                         「史記 商君列伝」
     
      ※ 商鞅は前後十数年に亘り宰相の地位にあった。

        彼の行った政治経済改革は「商鞅の変法」として知られるが、

       既得権益や威信を奪われた公族・貴族連中の反感は募るばかり

       であった。

        商鞅を全幅の信頼で以って信任していた孝公が崩ずるや、次の

       恵文王(王号を自称する)の時代になると、商鞅に対する反撃が

      始まる。



    テーマ : 歴史的な出来事
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    中国通史で辿る名言・故事探訪(老子)

     「寸進尺退」

                        戦国時代

      敵が一寸先に攻めれ入れば、それに応じて味方は一尺引下がって

     応戦するという意。

      用兵の妙は、積極果敢な攻勢よりも敢えて守勢に回るところに在り。

      兵を用いるに言えることあり、

      【吾れ敢えて主(しゅ)と為らずして客(か)くと為れ、

       敢えて寸を進まずして尺を退(しりぞ)け】と。

      (=戦いにおいては、吾らは決して積極的に攻勢を掛けるのでは

       なく、守勢となって守りに徹せよ。

        どうにかして敵に少しでも先じようなどとはせず、むしろ大きく

       軍を後退させよ。)

      是を、行くに行(みち)無く、攘(はら)うに臂(ひじ)無く、

      執るに兵無く、扔(よ)るに敵無し、と謂う。

      (=かく言うに、行軍するのにその進むべき道がなく、血気に逸って

       袖をまくり上げると言っても出す腕がなく、手に取ると言っても武器

       がなく、寄ろうとしてもその敵がいない、ということである。)

      禍は敵を軽んずるより大なるは莫(な)し。

      (=戦禍とは、敵を侮ることに尽きる。)

      敵を軽んずれば、幾(ほと)んど吾が宝を喪わん。

      (=敵を侮れば、私の持す所の三宝を殆んど失うことになろう。)

        ※ 三宝とは、慈・倹・天下の先とならず、をいう。

      故に兵を抵(あ)げて相い如(し)けば、哀しむ者 勝つ。

      (=だから抗⦅あらが⦆って兵を布陣すれば、三宝の心で哀しむ

       方が勝つことになるのだ。)


                       「老子道徳経 六十九章」



      

      

      

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    中国通史で辿る名言・故事探訪(史記)

     「馬梁の戦い」

                         戦国時代

      この馬梁の戦いは「竹書紀年」によれば、紀元前344年のことであり、

     「桂梁の戦い」から十年後になる。

      天下に君臨しようと決意を固めた魏の恵王は、東周王朝(天子の)

     の顕王(35代)に無理強いして「王の称号」を認知させた。

      そして遂に諸侯を逢沢に招集して会盟を主催した。

      招きに応じて、宋・衛・魯及び秦からは公子が礼を尽くして参集した。

      だが敵対する楚と斉はこれを無視し、また魏とは友好国であった韓

     は招集に応じなかった。

      面子(メンツ)を潰された恵王は、激怒して韓討伐軍を編成した。

      その一方 この度は趙と結んで韓を攻略しようとした。

      斉「田氏の国家」の宣王(4代)は韓の救援要請に応じて、

     孫臏(そんひん)を田忌将軍の参謀として加えて軍を派遣した。

      対する魏の総司令官は龐涓(ほうけん)である。

      「 減竈(げんそう)の計 」

      先陣での宿営中に、自軍の将兵の炊飯用の竈(かまど)の数を

     意図的に減らして敵を欺き油断させる戦術。

      将兵が敵前逃亡したかの如く仮装するために、糧食を煮炊きする

     竈の数を減らすという手段を駆使する孫臏の編み出した新戦術である。

      当時戦陣にあっても、将兵の糧食は自炊するのが慣わしであり、その

     ため竈を作って炊飯していた。

      そして一つの竈で何人分かの炊飯をしたので、竈の総数で滞陣兵力

     を推測することが出来た。

      だから交戦国はお互いに、敵軍の竈の数をその煙により推測し合う

     ことが不可欠であった。

      この不文律を逆手に取り、敵軍に対して自軍の竈の数を日ごとに

     減らし、逃亡や脱落する兵が多くなった風を装い戦力の逓減を誇示して

     油断させ、有利に戦いを進めようとする戦術である。

      斉軍は魏都を目指して進軍を開始した。

      龐涓は直ちに韓から軍を引き返して、今度は盤石の態勢で斉軍の

     後を追撃していたが、密偵による報告によれば、魏都を目指す斉軍の

     軍勢を示すべき宿営地での竈の数が、三日前には十万、次の日には

     五万に減り、今は三日前の三分の一になっている、との情報である。

      龐涓は敵軍に陣営逃亡者が増えていると判断し、斉軍の先は見えて

     いると看做して、自軍の精鋭の軽装部隊を編成し斉軍を急追すること

     にした。

      その後 大梁から太子・申の加勢を得て十万の兵力となった。

      斉軍は丹水を下って逃げたが、その経路は宋国の中央を貫くように

     伸びていた。

      斉の防衛は強国の魏に向かう西部戦線は強く、宋や魯などの小国に

     面する南部戦線は力を抜いていたので、斉軍はわざと弱い地帯に逃げ

     込んだことになる。

      龐涓はしてやったりと、ほくそ笑んだ。

      斉軍は丹水の合流する沂水(きすい)から東岸に沿って北上し、

     郯(たん)や莒(きょ)などを経て北部にある斉都・臨淄(りんし)へ退却

     するものと判断した。

      そして魏軍がそれに応じて追撃すれば、容易に斉の軍事上の拠点で

     ある莒を攻撃できると判断したのである。

      だが孫臏は魏軍の動きを見て、安堵と共にほくそ笑んだ。

      戦略上は先ず大梁を目指すが、初めから魏軍が堅守する大梁を

     落とす気などは全くなく、真の目的は魏軍を斉地へ出来るだけおびき

     寄せることにあった。

      そのために日ごと竈の数を減らす偽装工作を施したのである。

      そして魏軍の兵站線を出来るだけ長く延ばすことにあった。

      斉軍は、莒に向かう道筋である山岳地帯の馬梁の隘路に伏兵を

     置いた。

      「 龐涓、この木の下に死す 」

      魏軍は追撃を開始してから、ようやく日暮れになった頃には馬梁の

     谷間に入っていた。

      それでも龐涓は追撃を緩めず急追していたが、ふと見ると谷間の

     道端の大木の幹に何やら文字が書いてあるのに気が付いた。

      龐涓はそれを読もうと、火を灯させたところ、

      「龐涓 この木の下に死す」、と大書してあった。

     それを読み終えるや否や、一斉に弩や弓から無数の矢の雨が降り

     注いできた。

      魏軍は防戦するも統制を失って兵は纏まり失い、斉軍の設けた土塁や

     防護柵に妨げられ、次々と部隊は殲滅されていった。

      龐涓は決死の突破を試みようとしたが、幾重にも重なる斉軍の陣容

     に抗する術もなく遂に観念して、

      「ついに豎子(じゅし)に名を成せり」、

      と言って自ら首を刎ね、太子は虜(捕虜)となった。

        ※ 豎子:小僧っ子の意。


                     「史記 孫子・呉起列伝」


      

      

    テーマ : 戦記
    ジャンル : 学問・文化・芸術

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    中国通史で辿る名言・故事探訪(戦国策)

     「戦い、朝廷において勝つ」


                       戦国時代

      斉の鄒忌(すうき)は身の丈八尺余りあったが、体つきは優雅で

     麗しかった。

          ※ 戦国時代の1尺は22.5㎝。

      彼の妻も、妾も客人も皆して、徐公の美と比べてどちらが優れている

     かと問えば、必ず徐公より美しいといった。

      翌日の事 その徐公がやって来て、つれづれ観察するにとても徐公

     には適わないと思えた。

      ある日 鄒忌は、参内したときに威王に見えて言った。

      「臣は徐公の美に及ばないことを知っておりますが、それなのに妻は

     身びいきし、妾は畏れて、客は取り入ろうとして、皆が皆 私が徐公より

     優れていると申します。

      今 斉の地は千里四方(大国の意)、百二十城ございますが、後宮の

     侍女たちも側近も王に贔屓せぬ者は無く、朝廷の臣で王を懼れぬ者は

     無く、また国内で王に取り入ろうとしない者はありません。

      此れに由って之を観れば、王の耳目の蔽われること甚だしと申さねば

     なりません」と、言上した。

      成程と思った威王は、早速 次の如く令を下した。

      「群臣吏民で、寡人(かじん。君侯の自称)の過ちを面と向かって

     誹る者には上賞を与えよう。

      上書して諫める者には中賞を与えよう。

      市場や朝廷の内において誹謗し、それが寡人の耳に聞こえる者に

     は下賞を与えん」と。

      令が下るや、しばらくの内は諫言を奉る群臣たちで、宮殿の門も中庭

     も市場のような雑踏ぶりであった。

      数箇月の後には、時々 勃勃の諫言となり、一年の後には諫言も尽き

     果ててしまった。

      燕・趙・韓・魏の諸国では、このことを聞くや、自ら斉国詣でを始めた。

      之こそ所謂、“ 戦い朝廷において勝つ”、ということである。


               「戦国策 斉・威王」



      

          

    テーマ : 中国古典・名言
    ジャンル : 学問・文化・芸術

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    中国通史で辿る名言・故事探訪(魏恵王と公孫鞅)

     恵王、公孫鞅を見限る

                        戦国時代

      公孫鞅は衛の公族の庶公子であったが、魏の国の宰相・公叔座

     の中庶子となっていた。

      時に公叔座が重病に陥った時、魏王(恵王)が見舞いに訪れた。

      その際 王は公叔座 亡き後の事として、これからの国事を誰に任せる

     べきか相談した。

      公叔座は応えて、

      「私には縁があって庶子となっている(公孫)鞅がいます。

      これをお使いください。若し適わなければ、必ずこれを殺して国境から

     出してはなりません」と。

      彼が帰途についてから、魏王は側近の者に言った、

      「ああ悲しいことだな。公叔座ほどの人物でも、今わの際には我が子を

     勧めるとは、その賢に悖るのではないか」と。

      だがその後 公叔座が死んでも、鞅には王から何の沙汰もなく過ぎ

     去った。

      そうこうしている内に公孫鞅は、秦の孝公が国政改革で、諸国にも

     広く人材を求めていることを知り、出国して秦の都を訪れた。

      だが魏を出国の際、王からは妨害も無ければ刺客の追跡なども

     なかったのである。

      そして秦では伝を求めて孝公の寵臣・景監に取り入り、彼の紹介で

     ようやく秦王に謁見することが許された。

     謁見の席上で公孫鞅は長々と意見を具申したが、孝公は真剣に聞こう

     とはしなかった。

      そして後に孝公は、紹介した景監を叱り飛ばした。

      そのため景監は公孫鞅を責めたが、

      公孫鞅は言う、

      「私は先ず帝王のあるべき道を説いたのですが、ご理解は戴け

     なかったようです」と。


      それから数日すると、孝公は又 彼を召し出した。

      公孫鞅は再び熱心に説いたが、孝公はやはり満足せず、再び景監を

     叱った。

      景監が公孫鞅を責めると、彼は言った。

      「今度は王道を説いたのですが、やはりご理解して戴けなかったよう

     です。

      もう一度 謁見して戴ければ、今度こそ満足して戴けると存じます」と。

      果たして公孫鞅は、三度目の謁見の席で覇道について進言した。

      孝公はかなり興味を示したが、それでもまだ彼を登用しようとは言わ

     なかった。

      公孫鞅は 四度 謁見を願い出た。

      孝公は今度は熱心に聴き入り、自分でも異議を挟んで議論を重ね、

     謁見は数日も続いた。

      景監が不思議に思い、公孫鞅にその間の事情を聴くと、

      「始めは帝王の道を説いたのですが、君はそれを迂遠なものとして

     お取り上げになりませんでした。

      次には王道を説き、更に覇道について説きました。

      そして今度は、富国強兵の方策を説いたところ、大いに喜ばれた

     という訳です」と。

                      「史記 商君列伝」

      〓 拾遺弥縫 〓

        公孫鞅は、孝公に任用されるようになってから、功績を

       大いに挙げて、「商」の地に封ぜられたので 商鞅と称せられる。 

        「商鞅の変法」と言われる、法家思想に基づく富国強兵策などの

       大改革を断行し、大いに貢献したが、旧守貴族らの根強い反抗にも

       あった。

       「 商鞅の思想 」

         国の治まる所以のものは三

         一に曰く

         二に曰く

         三に曰く

       法は君主・臣下ともに守るべきもの。

       信義は君主・臣下ともに立てるべきもの。
      
       権力は君主 一人が保持すべきもの。

         
             商鞅 「商子」










     

    テーマ : 歴史的な出来事
    ジャンル : 学問・文化・芸術

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     河野長生   tyouseimaru

    Author: 河野長生 tyouseimaru
    出身地は四国八十八か所参りの発心の阿波、大阪を終の住処とする。
    歴史好きで、城郭・神社仏閣・歴史遺跡巡りが趣味となる。

    令和元年5月25日、マイブログがアマゾン kindle版として
    その題名も「心に響く中国歴史名」として出版されました。

    自薦
    自著「中国通史で辿る名言・故事探訪」は、上・中・下の3巻あり、 余りにも大部な書となってしまった。 そこで内容を圧縮して「ブログ」として、活路を見出した。 それで、かなり減量したものとなった。 今後はさらに読みやすいブログを目指して、工夫を加えるなどして、 補記訂正してゆきたいと思っています。       
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