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    中国通史で辿る名言・故事探訪

         丞相は何する者ぞ

              漢代

     漸く政務にも慣れてきた文帝(第5代・劉恒)は、ある日 朝議の席で、

    右丞相の周勃(しゅうぼつ)に年間の裁判件数を尋ねた。

     周勃は、「存じません」と謝った。

     文帝は更に過去1年間の国家の歳入・歳出を問うた。

     周勃はひたすら恐縮するばかりで、体中冷や汗をかいた。

     そこで文帝は、左丞相の陳平に尋ねた。

      すると陳平は、

      「それぞれを担当の者が居ります。裁判のことは廷尉にお聞きください。

      財政のことは治粟内史(ちぞくだいし)にお聞きください」、と。

      ※ 廷尉: 裁判・獄訴を担当する官署で、その長は大理。

        治粟内史: 国家財政を担当する官署で、その長は大農令。 

      文帝はなぜか納得できず、再び質して言う。

      “すると丞相であるその方らは、一体 何をするのか”、と。

      陳平は畏れながらと、申し上げた。

      “宰相たる者、上は天子を援け、陰陽を理し、四時(四季)を順にし、

      下は万物のよろしきを遂げ、外は四夷を鎮撫し、内は百姓をなつかせ、

     諸役人をして各々その職分を全うさせることにあります”、と。

      文帝は大いに納得したが、周勃は大いに恥じ入り、以後 病と称して

     職を辞した。

                            「十八史略 西漢」


       ◎:

       「二人制 丞相」の場合、その上下関係は各王朝により異なるが、

       秦・漢時代では右丞相は左丞相より上位にあった。魏・晋時代

      には、左丞相が上位になる。 

       また後漢時代には、尚書令が政治の最高権力者となり、丞相職は

      名誉職化する。


     
     

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    中国通史で辿る名言・故事探訪

        「詩経」

      詩経は孔子の編集と謂われ、中国最古の詩集である。

      時代背景は周初から戦国時代中期までである。

      詩の形式は毎句四字の四言を基本とする。

      春秋の月に、行人(道行く人)が道々 木鐸を振りながら各地方の詩を

     採取したと。(漢書・食貨志)

        ◎ 行人とは限定的且つ単一の名称ではなく、単なる道行く人・

          旅人・出征兵士・使者の総称であったり、外交の官人や朝廷の

          接客をこととする者であったりした。

           木鐸とは、世人に警告を発し、教え導く人。

       木鐸を振って詩を集める以前は、各地方において、男子が六十歳、

      女子が五十歳にして子孫の無い者が衣食の資を与えられて、巷間の詩

      を集めて、それらは郷から邑へ、邑から国に、国から天子に上聞したと

      謂われる。

      その当時 朝廷には采詩の官があり、地方の詩を集めては之を中央の

     太師に集めて分類整理させた。

      そして音律を定めて天子に献じ、天子はその詩に現れた民情を知り、

     それを拠り所として実際の政治を執り行った。

      だがそのうち周王朝が衰退してlくると、この制度もなくなり、新しい詩

     の創作も途絶えるようになり、当に滅び去ろうとした。

      だが孔子の時代になって、残存していた詩歌はその数 三千篇と

     謂われたが、孔子は其の重複を削り、煩雑を省き、三百五篇とした。

      後の時代になってから、詩経は分類されるようになった。

      まず、その成立と発表の場により、風・雅・頌に三分類された。

      さらにその技法から、直接的叙述の「」・比喩の「」・草木や鳥獣、

     より、身近な物からの連想によって詩歌の題意を導く「」に分類された。

      詩経のこの六つの分類は、「詩経六義」と称される。

      風は国風ともいわれ、王朝の王風以下 各国の十五篇が収録され、

     国の名が篇名に冠せられている。

      だが、篇名の名のすべてが国名ではなく、国の一部の地名であったり、

     周王朝の諸侯国に含まれない南方地方も含まれれている。

      「雅」は、朝廷や諸侯の宴会で演奏された楽章である。

      大雅(三篇)、小雅(七篇)に分かれ、それは用いる楽器の数

     による区分と謂われる。

      「頌」は先祖の祭祀に用いられる寿詞(よごと)に類するもので、

     周頌・魯頌・商頌に大別される。

      歌と音楽のほかに舞踊をも伴うものと謂われる。

      作者は不明の者が多いが、明白な者もある。


     
      戦国時代には、詩経の一句だけを断じ取る、所謂 「断章取義」が

     複雑な国際関係を円滑に収めるものとして、諸国遊説の説客に

     多用された。

      かくして詩経から、多くの格言が生まれたのである。

      秦の始皇帝の時代に焚書坑儒が断行され、特定の書を除いて

     儒教関係の書などは廃絶したと言われた。

      だが後の前漢の御代(3代皇帝・文帝の時代)に、燕の韓嬰(かんえい)

     の伝えた「韓詩」・魯の申培の伝えた「魯詩」

     ・斉の轅固生の伝えた「斉詩」が世に出てきた。 

      さらにそれより後に、魯の人・毛亨(もうこう)により「毛詩」

     伝来した。

      現代の詩経は、この毛詩に拠ると言われる。


        後漢から唐の時代にかけて、詩経の経学的解釈が定着した。

          これを「古注」という。

          毛詩の古注によれば、毛詩は背景に当時の政治的思惑があり、

         政治的に解釈されがちであったが、南宋の時代には朱子学派は

         詩経を語義通りに自然にありのままに解釈して、その経学性・

        政治性を否定しようとするようになった。

          これを「新注」という。

      〓 拾遺弥縫 〓

          「詩経 小雅・小弁」 
     
          桑梓(そうし)の意。

              桑と梓(あずさ)は両親の

              樹(う)えたものとて恭(うやま)うもの

              仰ぐは父上、縋るは母上

        ※ 古代中国では、五畝(ほ)の田に桑と梓を植えて子孫に

         遺し、暮らしの援けとする慣わしがあったと謂われる。

           桑は蚕を飼うため、梓は家人が亡くなった時の棺桶材

          としての必需品であった。

           その桑梓(そうし)が転じて、敬老を意味するようになり、

          更に故郷の家、故郷を指すようになった。

      
           ※ 「畝」についての解釈。

            日本でも土地面積の単位として、「畝(せ)」があり、

           三〇坪で約1アール(100平方メートル)であるが、

            中国の畝(ほ)は、時代によって一様ではなく、

           古代は六尺平方の百倍、後には五尺平方の百二十倍。

            だが概ね六アール程度相当といわれる。




      

    テーマ : 中国古典・名言
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    中国通史で辿る名言・故事探訪

       儒教の国教化

               前漢時代  

      「策問と対策」

     「策問」とは、天子が政治上の問題を「策」に書き出して臣下に意見を問う
    ことをいう。
     そして、その問いに応えるものが「対策」である。
     紙の未だ発明されていなかった前漢の時代は、文字を書き記すのに竹の
    札(竹簡とか簡策)が用いられた。
     前漢の景帝の御代に「賢良」として朝廷に推挙され,既に「博士」に任ぜ
    られたことのある広川国(河北省)の董仲舒は、時の武帝に諮問に応えて、
    その対策で論述した。
     事は勉学にあるのみ。
     勉強して学問すれば、則ち 聞 博くして、知 益々明らかなり。
     勉強して道を行えば、、則ち 徳 日に起こりて、大いに功あり、と。
     さらに人君と朝廷と官僚百官との在るべき関係や姿を述べ、官僚を
    正して、以って万民を正すという王道の施政に論及した。
     そして、漢が天下を得てから恒に天下を上手く治めようとしながら、教化
    立たずして万民正しからざるは、当に改めるべきを改めようとして、而も
    改められなかったことに起因するものであった、と断じた。
     そのように訴えてから、一気に鬱積した想いを言葉に託した。

     士を養うは太学(たいがく)より大なるは莫し。
     太学は賢士の関(よ)る所にして、教化の本源なり。
     願わくは太学を興し、明師を置いて、以って天下の士を養わんことを、と。

     かくして、武帝の建元五年(前136年)、「太学」「五経博士」の官が設置され、儒教は国教となった。

      以来 儒教の五つの経典を「五経」というようになる。

        「五経」とは、

       易経・詩経・書経・春秋・礼記をいう。 

     


    テーマ : 四書五経
    ジャンル : 学問・文化・芸術

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    中国通史で辿る名言・故事探訪(史記)

     「学 無かる可からず」

                        漢代

      漢の第7代武帝(劉徹。在位 前141~前87)は国事多端に迫られ、

     多年にわたるご意見番の汲黯(きゅうあん)の意見に耳を傾けなくなった。

      汲黯は黄老の学を修め、民治にはよく選んだ部下に任せて、細かい事

     には責任を問わなかった。

      武帝が即位すると、謁者となり後には認められて東海太守に任じられた。

      ところが時代は遷り、昔は汲黯の属官であった公孫弘が丞相となり、

     張湯という者が御史大夫となった。

      またその他にも自分の属官であった連中が、次々に出世して自分の

     上位に昇進した。

      その内 汲黯は人前も憚らず、以前にも増して公孫弘や張湯を誹謗

     したり罵倒したりするようになった。

      公孫弘らにとっては、汲黯はいとも煙たい存在となり、遂に画策して

     汲黯を右内史(国都の知事)に左遷させてしまった。

      ※ 漢の制度では、景帝時に首都の統治を左・右の内史に分割した

       が、武帝時には、右内史は京兆尹に左内史は左馮翊(さひょうよく)

       に改称。

      心穏やかならぬ汲黯は、機を見て武帝に己の心情を漏らして言った、

      「陛下の群臣を用いるは、薪を積むが如きのみ。

       遅れて来る者、上に居る」、と。

      即ち旧来の臣下を尊重して重用せず、新来者ばかりをいとも安易に

     重用していると現状を皮肉ったのっである。

      武帝は黙り込んで何も言わなかったが、汲黯が退くと独り言ちた。

         「人は果たして以って学無かる可からず。

          汲黯の言を見るに、日に益々 甚だし」、と。


      ところが、汲黯は晩年には武帝に懇願されて淮陽の太守に任じられた。

      汲黯は心身の不調を理由に辞退したが、武帝は赦さず、

      「淮陽は人民と役人の間がしっくりせず、治め難きところである。

      君の名の重さだけが頼りとなるので、たとい病で伏したままでもよい

     から、とにかく任地に赴いて欲しいのだ」、と説得した。

      汲黯は仕方なく任地に赴き、十年経ってその地で没した。

      この汲黯に対しては武帝と雖も、終始 一目置き汲黯に会うときは

     必ず冠をしたという。

      後に 大将軍となる衛青などに対しては、武帝は寝室の端に腰を掛け

     て彼を引見したこともあったというので、汲黯の存在は誠に重かったので

     あろう。 


                       「史記 汲・鄭伝」


    テーマ : 中国古典・名言
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    中国通史で辿る名言・故事探訪(史記)

     「漠北の戦い」


                        漢代

      元狩四年(前119年)春、武帝は大将軍衛青、驃騎将軍霍去病を

     それぞれの司令官として匈奴討伐戦を行った。

      騎兵はそれぞれ五万に、歩兵と輜重兵の数十万がそれぞれの

     後続部隊として従軍した。

      この時 武帝は、精鋭の兵は霍去病の軍に配属した。

      霍去病は東方の代郡から、衛青は定襄から出撃した。

      衛青の軍団には、郎中令・李広が前将軍として付き、平陽侯曹襄が

     後将軍、主爵都尉・趙食其(いき)が右将軍、太僕公孫賀が左将軍に

     任ぜられた。

      衛青は霍去病と共同して、匈奴に総攻撃を仕掛ける予定であった。

      衛青の軍団は砂漠の奥深くに進撃し、国境から千里余りの地において、

     匈奴の単于の軍と遭遇した。

      迎え撃つ匈奴は、先に匈奴に降伏した漢の趙信の意見を受けて、

     輜重隊は遠く北の地に移動し、精鋭部隊を砂漠の北側に配置していた。

      衛青はここに於いて、武剛車(盾と幌のある軍用車)を環状に並べて

     本営を設け、五千騎を以って匈奴に当たらせた。

      匈奴も万騎で以って応じた。

      日没前であったが、この時 強風が吹き砂塵が両軍の顔面を塞ぎ、

     互いに相手の動きを見定めることが出来なかったが、衛青は左右両翼の

     部隊を投入して、匈奴を包囲する態勢を整えた。

      単于は、総兵力に於いては漢軍に劣り且つ闘志も及ばないとして、黄昏

     に乗じて精鋭の部下数百を率いて漢軍の囲みを突破して、西北の方向

     に逃げ去った。

      この時の戦いにおいて、両軍はほぼ同数の死傷者を出した。

      だがこの時、漢軍に捕らえられた匈奴の捕虜の口から、匈奴の単于

     が戦場を離脱したというj情報が入り、衛青は全軍を率いて夜明けまで

     二百里余り追撃したが、遂に単于一行を見失ってしまった。

      この戦いにおける衛青軍の戦果は、首級と捕虜 一万余であった。

      だがこの作戦中に、前将軍李広と右将軍趙食其の率いる軍団は、

     衛青の本隊と離れて東寄りの進路を取ったため、道に迷い戦闘に参加

     することは出来なかった。

      そして両軍が本隊に合流することが出来たのは、砂漠の南方まで引き

     揚げて来てからであった。

      衛青は討伐戦の不始末の報告書作成のため、使いを李広と趙食其

     の元に派遣し釈明を求めたが、李広はそれを拒んで自決し、趙食其は

     進んで縛に就き、後に贖罪金を払って庶人に落とされた。

      一方では霍去病の軍団は、代と右北平郡から出撃し、砂塵を進むこと

     千余里、匈奴の左王の軍と戦闘を交えた。

      先ず匈奴の王・比車耆(ひしゃき)を誅殺し、左大将の軍から其の旗鼓

     を奪い、頓頭王(とんとうおう)、韓王らとその他に将軍・大臣をはじめ

     八十三人の幹部を捕らえ、捕虜の数は七万余に及び、敵軍の三割を撃滅

     するるという大戦果を挙げた。

      この対匈奴戦を、「漠北の戦い」という。

      漢軍の若きエース霍去病は、この後 大将軍衛青を凌ぐほどの活躍

     をし武帝の信頼も篤く人気を博したが、弱冠二十一歳という短命であった。

      だがその短い生涯において、六度出征し、首級と捕虜十一万の戦果を

     挙げ、匈奴の渾邪王とその兵数万を帰順させ、西北の辺境を安泰に

     導いたと言われる。


                   「史記 衛将軍驃騎列伝」


      

    テーマ : 戦記
    ジャンル : 学問・文化・芸術

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     河野長生   tyouseimaru

    Author: 河野長生 tyouseimaru
    出身地は四国八十八か所参りの発心の阿波、大阪を終の住処とする。
    歴史好きで、城郭・神社仏閣・歴史遺跡巡りが趣味となる。

    令和元年5月25日、マイブログがアマゾン kindle版として
    その題名も「心に響く中国歴史名」として出版されました。

    自薦
    自著「中国通史で辿る名言・故事探訪」は、上・中・下の3巻あり、 余りにも大部な書となってしまった。 そこで内容を圧縮して「ブログ」として、活路を見出した。 それで、かなり減量したものとなった。 今後はさらに読みやすいブログを目指して、工夫を加えるなどして、 補記訂正してゆきたいと思っています。       
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