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    中国通史で辿る名言・故事探訪(韓非子)

     「先黍後桃(せんしょこうとう)

                      春秋時代に比定

     貴賤の分別を知らないことの喩え。

     黍(きび)飯を先に食べて、桃は後にするの意。

     果物の桃の表面は柔かいうす毛に包まれており、そのままでは食し

    難く、そのため古代に於いては五穀の一つである黍で以って揉み落して

    から食した。

     孔子は魯の哀公に宮中に召されて、君侯の傍らに侍していた。

     そのうち、その席で哀公は孔子に桃と黍を賜った。

     そして哀公が孔子に食べるように促すと、

     孔子は、先黍後桃(せんしょこうとう)の順にして食した。

     つまり、最初は黍飯を食べ、それから桃を口にしたのである。

     同席していた左右の者は、孔子のそのあり様を見て皆 口を覆って

    笑った。

     哀公は言う、
     
     「黍はこれ飯すべきものに非ず、以って桃を雪ぐものなり」と。

     哀公の説明に対して、孔子は堂々たる態度で対えて言った。

     「私もそれは存じております。しかし、かの黍は五穀の長でござい

    まして、先王を祀るときには、最上の供え物と致します。

     木の実・草の実には六種類ございますが、桃は下等の物で、先王を

    祀る時には廟に入れることは出来ません。

     私は、君子は卑しい物で貴い物を拭うと聞いておりますが、貴い物で

    卑しい物を拭うとは聞いておりません。

     貴賤の順序を取り違えると、正しかるべき義を妨げると存じます。

     だから私は敢えて、桃を最上の供え物である黍よりも重んじようとは

    しないのです」、と釈明した。

     この孔子の釈明は、一見すると尤もな理屈ではある。

     韓非子(遥か後世の人)は言う、

     「黍飯を先に食べてから桃を食べた孔子の姿は、泣きたくなるほど

    滑稽である。

     なるほど義には適ったものではあるが、物事の本質の理を大きく損ね

    ていると言える。

     桃の皮は薄皮で覆われており、そのままでは食べれた代物ではない

    のである。

     しかし、「先黍後桃」は反面教師として、心に留めておくべき君主の心得

    である。

               「韓非子 外儲説」


     

    テーマ : 中国古典・名言
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    中国通史で辿る名言・故事探訪(孔子家語)

     「君は舟、庶人は水なり」


                      春秋時代

     魯の哀公(26代。在位期間 前494~468)が孔子から、

    「人の五儀」について進講を受けた時、問答の最後で、

     「自分は宮中深く 婦人の手で育てられてきたので、未だ曽て

    とか、或はとかということを知らずにきた。

     だから未だ曽て危うきということを知らないので、恐らく教えられた

    五儀を実行する術(すべ)が分らないのだ」と言った。

     それに対して孔子は、言を左右にして何も言わなかったが、哀公の強い

    要望に接して口を開いた。

     哀公が言うところの「哀」から「労」については、具体的な喩え話で教え

    示した。

     更に語り続けて、
     
     「君が思いに耽って城外に出て、周章遠視し、亡国の虚を見れば、必ず

    そうなって運命という者に気付くはずです。

      ※ 周章遠視とは、あちこちと廻り且つ遠くを見つめること。

        亡国の虚とは、滅亡してしまった国々の廃墟。

     君 之をもて懼(おそ)れを思わば、、則ち懼れ知るべし。

     夫れ君は舟なり、庶人は水なり。


     水は舟を載(の。浮べる)す所以なるも、また舟を覆す所以なり。

     君 之を以って「危」を思わば、則ち危を知るべし。

     君 既にこの五者を明らかにして、また少しく意を五儀の事に留むれば、

    則ち政治に於いて何ぞ失うこと有らん」、と。

                     「孔子家語 五儀解」

     

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    中国通史で辿る名言・故事探訪(斉の内紛 収まらず)

     「晏孺子から悼公へ」


                      春秋時代

     前490年、斉では久しく君臨してきた26代景公(呂杵臼)が没した。

     また春秋の名宰相として斉で重きをなした晏嬰は、既に亡くなっており、

    ここに至って陳からの亡命貴族の田氏(亡命前は陳氏という)一族と

     建国以来の名族である高氏、国氏、晏氏、鮑(ほう)氏などの有力貴族

    の政権争いが起った。

     前489年 先ず景公の遺命を奉って景公の妾腹の子の荼(と)を

    高張と国夏が擁立して即位させた。これが27代晏孺子である。

     同年冬十月 公子嘉・公子駒・公子黔(けん)は衛に逃れ、公子陽生・

    公子鉏(しょ)は魯に逃れた。

     田乞(陳乞)は個人的には高氏や国氏に擦り寄り、味方する振りを

    しては、敵対する大夫連中を始末することを仄めかした。

     その一方では朝廷に於いて、大夫の席では国氏・高氏の二人の

    横暴を吹き込みその排斥を蠢動した。

     するとこれに賛同する鮑牧は、陳乞と共に他の大夫らを引き入れて、

    遂に魯・哀公六年(前489年)夏六月戊辰(五日)、武装兵を率いて

    公宮に攻め込んだ。

     かくして陳乞らは、斉の両翼と云われた高張と国夏を追放し、晏孺子

    の年長の兄弟である公子陽生を魯から呼び戻して即位させた。

     これが二十八代悼公(呂陽生)である。

     なお国夏は莒(きょ)に逃れ、高張は魯に逃れた。

     晏孺子とその生母は追放されたが、悼公の意を受けた毛朱が晏孺子

    を駘(たい)に遷し、未だ到達しない内に野外の帳幕の内で殺した。  

               「春秋左氏伝 魯・哀公六年・七年」



     

      

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    中国通史で辿る名言・故事探訪(春秋左氏伝)

     「我顧みれば乃ち之を殺せ」

                      春秋時代

    >混迷する衛の国情<

      紀元前493年 衛では二十九代霊公(姫元)が崩じた後、国人層

     は出奔中の蒯聵(かいかい)の子・輒(ちょう)を急遽 大子に立てた。

      そしてその翌年に即位した。これが三十代出公である。

      先代霊公の大子であった蒯聵は、義母である南子と折り合いが悪く、

     蒯聵は魯・定公十四年(前496年)に、南子暗殺を謀ったが失敗した。

    >南子殺害の陰謀の経緯<

      この年(前496年) 衛・霊公は、愛する南子夫人の為に宋から兎角

     好からぬ美男子の噂も高い宋朝を召し寄せた。

      時に衛の太子・蒯聵は、斉侯と宋侯が洮(とう)で会合を持ったので、

     斉に盂の地を献じるために宋の郊外を通過しようとした。

      するとその時 その地の人が歌っていた、

         既に爾の婁豬(ろうちょ。雌豚)を定む。

           ※ 婁豬とは、霊公に嫁いだ南子のこと。

         蓋(なん)ぞ吾が艾豭(がいか。雄豚)を帰さざる。

           ※ 艾豭とは、宋朝のこと。

      蒯聵はその歌を聞いて大いに恥じるところがあり、臣下の戯陽速

     に帰国後の南子殺害の手立てを謀った。

      「我に従って少君(南子のこと)に見えよ。

      少君、我を見ん。

      我 顧みば(汝を振り返って見れば)乃ち之を殺せ」と。

      戯陽速はその旨を承諾した。

      帰国後 南子夫人に朝見した時、蒯聵が三度顧みるも戯陽速は

     進まず。

      夫人はその内 蒯聵の顔色が変わったのを見て悲鳴を上げて、

     霊公の傍らに逃げ出し、

      「蒯聵が私を殺そうとしています」と急訴した。

      霊公は夫人の手を引いて楼台に昇った。

      かくして蒯聵の目論みは失敗に帰し、己の身の危険を避けるために

     宋に亡命し、さらに晋へと逃れた。

      その後 魯・哀公二年(紀元前493年) 衛では霊公が崩じたので、

     国人層は蒯聵の子・輒を大子に立てたのである。

      すると蒯聵は、晋の大夫・趙簡子の支援を得て、晋との国境に近い

     衛に入国して君位を奪おうと画策した。

      六月乙酉(二十二日) 衛の東部にある戚という国境沿いの邑に入った

     が、衛軍に阻まれてその地に立て籠もった。

      翌年に大子輒は即位した。これが出公(三十代)である。 

      蒯聵はそのまま戚に居座り、折あらばと画策し続けた。

      この蒯聵が君位を奪うのはそれから十二年後のことである。

      後の三十一代荘公である。



     ☷ 拾遺・弥縫

       しかし荘公は、在位三年にして非業の死を遂げ、再び国人層が

      公孫の姫般師を三十二代君主に就けると斉に攻め込まれて、斉は

     公子・姫起を立てた。これが三十三代君主である。

      ところが翌年夏 石圃が衛君・起を追放すると、今度は斉にいた

     姫輒(出公)が帰国して再び君位に就き、石圃を追放する。

      ところが衛君の地位は安定せず、哀公二年(前470年) 出公は

     突然に破天荒な暴君ぶりを発揮するようになり、堪えがたい屈辱を

     受けて結束した褚師比・公孫弥牟・公文懿子らの五人組に攻められ、

     一時期 宋に出奔した。

      その後 越に多大な貢物をして、その支援により国君の地位を回復

     しようとしたが、五人組と国人層の壁は厚く、結局 復帰は憚って越に

     赴き、その地で亡くなった。
      
      衛では魯・哀公二十六年(前469年)、蒯聵の庶弟の公子某を擁立

     して、公孫弥牟が輔佐し、城鉏(じょうしょ)の地を越に割譲した。

      これが三十五代悼公である。 


                 「春秋左氏伝 」



     



      


      
     

     

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    中国通史で辿る名言・故事探訪(劉向の新序)

      葉公、龍(りょう)を好む


                   春秋時代

     似て非なるものの喩え。

     所謂 偽善者を言う。

     孔門の子張は、魯の哀公(26代)に見えんと、道を通しとせず魯を

    訪れた。

      ※ 子張:顓孫師(せんそんし)といい、子張は字。

         紀元前503年から ?年。

    哀公:在位期間 前494~468

     しかし哀公は、七日経っても「士に見(まみ)える礼」をしなかった。

     子張は、彼の僕に次の言づけをして立ち去った。

     「臣は君が士を好まれると聞き、千里の遠い所も遠しとせず、霜露を

    犯し塵垢を犯し、遠い道を歩いて足の底が豆だらけになっても、敢えて

    休もうともしないで君に見えたのです。

     然るに君は、七日経っても「見(まみ)える礼」を為されません。

     してみれば君が士を好まれるのは、葉公子高が龍を好まれるのに

    似ておられます。

      ※ 葉公子高(しょうこうしこう)とは、楚の大夫であり、本名は

        沈諸梁(しんしょりょう)といい、字は子高。

     葉公は龍を好んで、家中に龍の絵を掲げ、彫り物で飾って喜んでいた

    と言いますが、いつしかかの龍が之を聞いて天から降りてきて、その頭を

    窓から覗かせ、尾を堂の上に引きずりました。

     葉公は之を見ると、顔色を無くして逃げ出してしまったということです。

     之を見るに、葉公は龍を好んだのではありません。

     かの龍に似ていて、しかも龍でないものを好んだと言えます。

     然るに臣は、君が士を好まれると聞き、千里を遠しとせず君に見えよう

    とするのに、七日経っても然るべき礼をなさいません。

     これで見ると、君は士を好まれるのではなく、かの士に似て、しかも士

    でない者を好まれるのです」と。

                    漢の劉向 「新序・雑事」

     
     ☷ 拾遺・弥縫

       葉公子高は、春秋時代末期 楚の内乱を鎮めてその功により、

      しばらくは楚の令尹(宰相)を務めた。

       楚の葉県の尹(いん。長官)であったので、葉公と云われる。


     

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     河野長生   tyouseimaru

    Author: 河野長生 tyouseimaru
    出身地は四国八十八か所参りの発心の阿波、大阪を終の棲家とする。
    歴史好きで、城郭・神社仏閣・歴史遺跡巡りが趣味となる。

    令和元年5月22日、マイブログが、アマゾン kindle版として
    その題名も「中国通史の心に響く名言集」として出版されました。

    自薦
    自著「中国通史で辿る名言・故事探訪」は、上・中・下の3巻あり、 余りにも大部な書となってしまった。 そこで内容を圧縮して「ブログ」として、活路を見出した。 それで、かなり減量したものとなった。 今後はさらに読みやすいブログを目指して、工夫を加えるなどして、 補記訂正してゆきたいと思っています。       
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