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    中国通史で辿る名言・故事探訪(孔子伝)

    「孔子の三桓制圧策」

                     春秋時代

     魯の定公九年(前501年)、孔子は政治に携わる重要な官職に就く。

     時に孔子五十歳の頃と言われる。

     陽虎の乱が失敗して陽虎が斉に逃れた後、季桓子は孔子を抱き込もう

    として、彼を中都の宰(長官職)に任じた。

     それから二年後、定公は孔子を司空(土地・人民を司る役)に任じ、更に

    大司寇(司法警察の長)に抜擢した。

     その後、孔子はさらに宰相職を代行するまでになる。

     その間に、孔子は何時しか国内の三桓の勢力を削ごうと努力した。

     「三桓制圧策」

     孔子は定公に進言した。

     「家は甲(鎧)を臧(おさ。=私蔵)めず、邑は百雉の城無きは古の制

     なり。

     今 三家 制に過ぐ。請う皆 これを損せよ」と。

       ※ 百雉の「雉」は高垣の意で、その高さは一丈、長さは三丈。

          (周代にあっては)

          百雉の城は、城壁のは高さは3メートル、一辺の長さは900

         メートルあり、「国都」の規模である。

          大都になると、その規模は3分の1以下。中都は5分の1.

          小都は9分の1。  

      当時 三桓の季孫氏は「費」に、叔孫氏は「郈」に、孟孫氏は「郕」に

     宰邑があった。

      そして後の昭公四年(前538年)には、彼らは国軍を三分して自家

     の私軍とした。

      彼ら三桓は国都の曲阜の居住しており、彼らの宰邑は実質的には

     それぞれの有力家臣に任せていた。

      ところが時代はようやくこれらの有力家臣が実力をつけ、下剋上が

     進行しつつあった。

      そしてこの下剋上の風潮は、何も魯国に限ったことではなかったので

     ある。

      大国の晋や斉などでも、既にその風潮に喘いでいた。

      魯では、季孫氏の家臣であった先の陽虎の乱は当にその先駆けでも

     あった。

      定公十二年(前498年)、ようやくにして定公から認められた孔子は、

     三桓氏の代官の専横を抑えるという名目で以って、それぞれの当主の

     了解を取り付けた。

      孔子は季孫氏の宰となっていた弟子の仲由(子路)らに指揮を取らせ、

     三邑の破壊を命じた。

      そして定公十二年(前498)、叔孫氏は郈を破壊したが、季氏が費の

     取り壊しにかかると、費の宰・公山不狃と叔孫氏の庶子・叔孫輒が示し

     合わせて、費の兵士を指揮して逆に国都・曲阜を急襲した。

      身の危険にさらされた定公は、三桓と一緒に季孫氏の邸宅に一時

     避難したが、勝敗は容易に決しなかった。

      その内 漸く攻勢に出た三桓の勢いに費の軍勢は敗走し、姑蔑で

     敗れた。

      費軍の指揮車たる公山不狃と叔孫輒は斉に逃れた。

      かくして孔子は、遂に季孫氏の「費」の城壁を破却した。

      一方、孟孫懿子(何忌)の「郕」の家宰・公斂処父は、郕の位置が

     斉国に近く、防衛上の観点からも孟孫氏に城壁破却の不利をしきり

     に説いた。

    「郕を破却すると、斉が直ちに国都の北門にやってきますぞ。

      何と言っても郕は、孟氏に無くてはならない堡塁なのです。

      郕が滅べば孟氏も亡びますぞ。

      ここは子(あなた)は知らぬ振りをして下さい。吾が策を弄します」と。

      そこで孟氏は遂に破却することに反対を表明した。

      冬 十二月、城壁破却の命を受けた軍が郕を包囲したが、攻略する

     ことは出来なかった。

      結局 孔子の思惑は中途で挫折することとなった。

      さらにその後 城壁破却の不利を悟った季孫氏からも不信を買う

     ことになり、政治的にも孔子の立場は非常に弱まった。

      「少正卯の誅殺」

      その当時 魯の国内で政治・思想上の問題で混乱の元凶となり、

     孔子一門に敵対していた有力な思想集団の頭領で大夫でもあった

     少正卯(しょうせいぼう)を孔子は処刑した。

      即ち思想上の理由から、政治上の政敵を躊躇することなく抹殺して

     しまった。手段を択ばない言論の弾圧としか言いようのない処置で

     あった。

      だが好事魔多しといい、その後 三桓勢力は再び勢いを回復して

     おり、隣国の斉の国からも魯の国力の充実には危険視されるように

     なり、その目標を孔子に定めて再三謀略が仕掛けられるようになった。

              「春秋左氏伝 定公十二年」、「史記 孔子世家」

      「孔子の政治への訣別」

      斉では魯が孔子を任用してから、僅か三カ月で国が大いに定まる

     のを知り大いに恐れた。

      そこで斉は、善隣友好の名の下に斉国内の美女で舞楽を能くする

     者八十人を選んで魯に送り込んだ。

      魯の君臣をして声色に溺れさせ、政治を怠らせ、且つ賢人を執政の

     場から去らせようとの謀略であった。

      魯の最大の実力者である季桓子は君にそれを勧め、自らも楽しみに

     耽り政治を怠るようになった。

      君が賢人を用いながら女楽に耽るのは、賢を侮ることであり、朝議が

     永く行われないのは礼を棄てることである。

      孔子は魯の政治に失望し、魯を離れる決心をした。

      それ以後、十余年に亘る流浪の旅出となった。


      

     



     

     

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    中国通史で辿る名言・故事探訪(晋と周辺諸国

    「夷儀の戦い」

                     春秋時代

     魯・定公八年(前502年)秋、晋の范献子(士鞅)は周の卿大夫・成桓公

    と合流して鄭に侵入したが、自らは戦車部隊を率いて中牟を包囲した。

     次いで晋から離反した衛に侵攻した。

     翌年の秋、斉侯は衛を援助するため晋の夷儀を攻めた。

     晋では夷儀救援の為、戦車千輛を送り込んだ。

     これを受けて衛公は自ら軍を率いて、斉侯を助けるため中牟に向けて

    軍を進めたが、その途中 晋の趙氏一族の邯鄲午が守る五氏を攻め、

    守兵を殲滅した。

    1 「功名争い」

      斉軍が夷儀城を攻めた時 兵士の一番乗りの功名争いがあった。

      斉軍の士で蔽無存(へいむそん)という者がいて、戦いの始まる前に

     父から嫁取りの話があった。

      ところが彼は、

      「今度の合戦で死なずに帰れたら、きっと斉国の名門である国氏か

     高氏の娘さんを貰い受けます」と言って、勇躍出陣した。

      彼はその言葉通り夷儀城を攻めた時、真っ先に敵城に突っ込み、

     城壁をよじ登り城内に降り立って城門を開こうとした。

      だがもう少しのところで討死してしまった。

      続いて東郭書という士がいて、しばらく様子を窺ってから城壁をよじ

     登った。

      そのすぐ後には衛の出身で斉の王猛に仕えていた犂弥(れいび)

     という士が続き、東郭書に言った、

      「汝は左へ行かれよ、我は右に行き、全員が登り切ってから降りよう

     ではないか」と。

      犂弥はそう言ってから、何とわれ先に乗内に降り立ち、一番乗りを

     果たした。

    2 「中牟攻め」

      衛公が中牟を通ることの吉凶を占わせたところ、凶と出た。

      だが衛公は率いる全五百の戦車を配下の武将に任せて、敵軍の

     半分に当たらせ、自らは歩兵を率いて残りの敵軍に当たろうとした。

      そして中牟を通る頃、中牟では迎撃する意気込みを示した。

      ちょうどその頃、衛の褚師圃(ちょしほ)という者が、衛から逃れて

     この中牟にいたが、祖国愛から中牟の人に言った、

      「衛は小さいながらも、この度は君侯自ら采配を揮っているので、

     軍の指揮も高くよく統制が取れている。

      だが衛の軍は夷儀を攻め落として気も大きくなり有頂天になっており、

     その将は位も低くかつ統制も不十分である。

      これに出くわせば、必ず勝てよう」と。

      果たして中牟の軍は、斉軍に当たることになり、これに少しく打撃を

     与えたが、その後に参陣した晋の戦車部隊と共に戦ったが破れて

     しまった。 
      
      戦後 斉公は杏などの三つの邑を衛に贈り、夷儀の一番乗りの勇士・

     犂弥を賞した。

      だが犂弥は辞退して言った、

      「一番乗りをした者は他におりまして、私はその伴をしただけでござい

     ます。

      其の者は、色は白く歯並びの美しい、霜降りの外套を着けておりました」

     と。

      斉公が其の者を探し出させて、犂弥に確認させると、

      「この人に間違いありません。吾はあなたに賞をお譲りしましょう」と、

     東郭書に言った。

      だが、東郭書は、

      「あの者(犂弥のこと)は国人ではないのに、よく我が国のために

     働きましたので」と言って辞退した。

      そこで斉公は、改めて犂弥を一番手柄とした。

      だがこの度の論功行賞に先立ち、斉軍が夷儀に留まっていた時、

     斉公は夷儀の人々に告げた、

      「蔽無存の亡骸を見つけた者には、五家を与え、労役を免ずる」と。

      後 蔽無存の亡骸が見つかると、斉侯は亡骸に着せる衣類を三度も

     着せ替え、高級車と殉葬用の傘を与えて先に帰国させた。

      その後、柩車を挽く者を拝跪させ、全軍で哭礼を行い、公自ら柩車を

     三度押して心からの弔意を表した。

     「晋の趙簡子の報復」

      魯・定公十年(前500年)、晋の趙簡子駕夷儀の戦いの報復の為

     衛を包囲した。

      其の最中 晋の邯鄲午は部下七十人を率いて衛の西門を攻撃し、

     門内で守兵を殺し、

      「五氏の戦いに報復いたす」と口上を述べた。

      すると負けじと、渉佗は言った、

      「夫子は勇敢だが、我が攻めに行けばきっと恐れて、城門を開こう

     とはしないだろう」と言って、同じく部下七十人を率いて、払暁 城門を

     攻撃した。

      門前の左右に全員が仁王立ちになり威嚇したが昼になっても城門は

     開かなかったので引き揚げた。

      晋はその後 軍を撤退させたが、衛に対して晋から離反した理由を

     咎めた。

      衛がその理由とするところは、晋の渉佗と成何の非道にあるという。

      曽て晋が、衛・霊公と盟を交わした際、趙簡子が、

      「群臣の中で、衛君と盟を交わそうという者はいるか」と云うと、

     渉佗と成何が名乗り出た。

      そしていざ牛耳を執る段になるや成何は、

      「衛は吾が属邑の温や原と同じである。諸侯並には扱えぬ」と公言

     した。

      さらに血をすする段になり、渉佗は衛公の手を杯盤に押し付けて、

     中の血が衛公の腕に引っかかるというアクシデントがあった。

      この二つのことが、衛公を晋から離反に追い遣った原因でもあった。

      晋は渉佗を捕えて、衛に和議を申し込んだが拒否されたので、更に

     彼を殺し、成何を捕えようとしたが、成何は燕に逃亡した。

      「斉・衛軍、河内を攻める」

      魯・定公十三年(前497年)春、斉の景公・衛の霊公は軍旅を

     起こして晋に攻め込む。

      黄河を渡る際、大夫たちはそろって反対したが、斉の大夫・邴意茲は、

     「精兵が渡河して河内に攻め込めば、晋では急報が国都に届くには数日

     を要します。

      そして三カ月と経たないと、晋軍は黄河にたどり着けません。
      
      その時 吾らは既に黄河を渡っています」と進言した。

      そこで連合軍は、河内に攻め込んだ。

             「春秋左氏伝 定公八年・九年・十年・十三年」

    テーマ : 戦記
    ジャンル : 学問・文化・芸術

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    中国通史で辿る名言・故事探訪(陽虎の乱 2)

     「陽虎の乱 2」

                      春秋時代

     「陪臣の跋扈」

     魯の定公八年(前502年)頃から、最大の権力者たる季孫氏の家宰・

    陽虎がその身は陪臣でありながら、ついに国政を左右するほどに台頭

    してきた。

     また同じく「三桓」の一人である叔孫氏の家宰・侯犯や孟孫氏の家宰・

    公斂処父(こうれんしょほ)も陽虎と同様に主家を凌ぐ勢いがあった。

     魯は当に下剋上の時代に入っていた。

     季氏の宰邑(支配地)は「費」にあり、公山不狃(史記では公山弗擾)

    が代官を務めていた。

     そしてこの公山不狃は、陽虎と共に季氏の車の両輪の如き存在で

    あったが、季氏の当主たる季桓子の覚えは良くなかった。

     この季桓子の弟で季窹(きご)なる人物がいたが、季氏の一族の

    公鉏(こうしょ)極と共に兄の季桓子に不満を募らせていた。

     その一方では、叔孫氏においても、家長の叔孫武叔(州仇)の庶子・

    叔孫輒(ちょう)は父の寵愛を得ることが出来ず不遇を囲っており、また

    一族の叔孫志は朝廷に対して不満を燻ぶらせていた。

     「謀反の策謀」

     魯・定公八年(前502)、季氏の公山不狃・季窹・公鉏極及び叔孫輒・

    叔孫志の五人は、それぞれの思惑が一致して陽虎を盟主と仰いで頼る

    ことになった。

     彼らは政道一新を掲げ、三桓の当主を追い落として、季氏の当主には

    季窹を、叔孫氏の当主には叔孫輒にすげ替え、陽虎は自ら孟氏の跡を

    襲うということで策謀を巡らせた。

     冬十月 陽虎に与する一党は、魯侯の先祖を祀る「逆祀」を改めると

    いう名目で、壬申(九日)に陽虎が季桓子を蒲圃に招待して、そこで殺害

    するという手はずを整えた。

     だがその準備の一環として、陽虎が季氏の支配下にある兵車の準備

    を命じたことが、孟孫氏の宰邑「成」の代官で家宰でもあった公斂処父

    が嗅ぎつけ、当主の孟孫氏に通報し防備を固めさせるという齟齬が生じ

    た。

     いよいよ壬申の日 陽虎が季桓子一行の先駆けとなり、季桓子の御

    (馬車)は林楚が務め、兵がその前後を護り、陽虎の弟・陽越が殿を

    務めて蒲圃へ向かった。

     その途中、憂いの方が先立つ季桓子は、御の林楚に言った。

     「汝の家は代々季氏の忠臣であったが、汝もその跡を継いでくれるか」

    と。

     林楚は対えて、

     「其の仰せは遅う御座いました。陽虎が政権を握るようになってから、

    国中の者は陽虎に服しており、彼に逆らうと死を招きます。

     まさか死んでは、お仕えすることもなりません」と。

     だが季桓子は、

     「何の遅いことがあろうか。汝 吾を孟孫氏の所へ連れていけるか」と。

     林楚は、
     
     「死を恐れる者ではありませんが、君を無事にお届けできるか、それが

    心配なのです」と言いながらも、既に馬に鞭を当てて孟氏の邸宅に向って

    急行した。

     その頃 孟孫懿子(何忌)邸では、何時でも兵に転用できる牧場の屈強

    の若者を動員して、表向きは孟孫氏の子・公期の為に家屋を建て始める

    という偽装工作に取り掛かっていた。

     其の最中 季桓子の馬車が飛び込んできたので、孟孫氏は之を救助し、

    直ちに門を閉鎖して追撃を防いだ。

     「攻防戦」

     孟孫邸の門内から追撃軍に向かって放たれた矢が、追手の陽越に

    命中して殺してしまった。

     その後 陽虎は、魯の君・定公を脅かして味方につけ、孟氏を攻撃

    させた。

     だが成の軍を率いて公斂処父が上東門から攻め入り、南門の中で

    陽虎と戦闘を交えた。

     勝敗はつかず棘下に局面が移ってから、ようやく公斂処父の孟孫軍は

    陽虎軍に撃ち勝った。

     陽虎は甲(鎧)を脱いで公宮に入り、宗室の宝玉と大弓を盗み出し、

    丑父の辻に宿り、ゆったりと食事しながら供の者に言った。

     「魯の人は吾が逃げ出すのを知れば、命拾いしたと喜ぶであろう。

    何のゆとりがあって、吾を追いかけたりしようぞ」と嘯いた。

     また季窹は祖廟をお参りしてから魯を去り、陽虎は讙陽(かんよう)関

    に入り、そこを拠としてなおも反抗の姿勢を見せた。

     「公斂処父の野望」


     陽虎を追い払った公斂処父は、なおもその追撃を孟孫氏に進言したが、

    孟孫氏は許さなかった。

     すると今度は、季桓子殺害を持ちかけた。

     だが孟孫氏にはその雄略も度胸もなく、遂に季桓子を還らせてしまった。

     翌年夏 陽虎は宗室の宝玉と大弓を返して来た。

     だが遂に六月、季孫氏・叔孫氏・孟孫氏の三桓は、それぞれの思惑が

    一致し、与に陽関による陽虎を討った。

     「陽虎の亡命」

     陽虎は奮戦虚しく討ち破られ、全ての企てが失敗したので斉に亡命し、

    再起を期したが、陽虎の野望は斉の受け入れる所に非ず、反って幽閉

    される悲運に遭ったが、上手く逃亡して宋へ逃れ、さらに晋に逃れた。

     晋では実力者・趙鞅が、反対する者を抑えて彼を家宰に任じた。

     陽虎曰く、

     「賢明な君主には忠義を尽くすが、不詳の君なら隙を窺うのだ」と述懐

    したという。

     その言葉どおり、趙鞅に仕えるに忠誠を以ってしたと言われる。 

               「春秋左氏伝 定公八年・九年」

     ★ 一方では、公山不狃は猶も「費」に拠って叛いた。

       そしてこの頃の伝として、公山不狃は高名な儒家の孔子を招聘

      しようとしたこともあった、と言われる。

     


     

     

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    中国通史で辿る名言・故事探訪(下克上の始まり)

    「陽虎の乱 1」

                     春秋時代

     1 「陽虎の実権掌握への道」

     魯国では、孟孫・叔孫・季孫の三氏が実権を握り久しかった。

     この三氏は15代桓公(姫允。在位期間 前711~694)の血胤。

     魯・定公(25代)五年(紀元前505年)六月丙申(三日)、季孫氏の

    家長・季孫意如(平子)が亡くなると、その葬儀のことで紛争が生じた。

     季氏の家宰・陽虎は、璵璠(よはん)という君侯が帯びる美玉を季平子

    に帯させて納棺しようとしたが、季平子の側近の仲梁懐は最近の季平子

    が歩き方を臣下風に改めていたので、陽虎の仕置きを許さなかった。

     己の面子を潰された陽虎は彼を追放しようとして、季氏の宰邑である

    「費」の代官・公山不狃(ふじゅう)に話すと、 

     「彼は我が君の為を考えているのだから、子(汝)が恨むことは無い」

    と言った。

     葬儀も終り、後継者となった季桓子(季孫斯)が東野を巡行して費に

    着くと、費の代官・公山不狃は郊外に出迎えて慰労したので、季桓子は

    これに対して敬意を表した。

     公山不狃は季桓子に随行して来た仲梁懐も慰労したが、彼は不狃に

    対して敬意を表さなかった。

     公山不狃は怒って陽虎に話を持ち込み、彼を追放するよう願った。

     九月乙亥(十二日)、陽虎は季桓子とその従兄弟・公父文伯を監禁し、

    稷門の内で季桓子と盟を交わし、翌月甲寅(21日) 反対者への呪を

    かけた。

     公父文伯と季平子の姑婿である秦遄(せん)は追放され、共に斉に

    逃れた。

     かくして季氏の家宰に過ぎなかった陽虎は、季孫氏一族の有力者を

    追放し、三桓の筆頭であった季孫氏を牛耳るようになった。

     陽虎はさらに、定公及び三桓とは周舎(周王朝の御廟)で盟を交わし、

     国人とは亳社(はくしゃ。殷王朝の御廟)で盟を交わし、

     五父之衢(ごほのく)で反対者への呪を行った。

       ※ 「家宰」とは、卿大夫に私属して使用される家臣の長。

          その身は士階級に属し、「家老」とも「家令」ともいう。

          「五父之衢」とは、魯の四通八達した大通りの名。

       ★ この陽虎の乱は、中国における下剋上の嚆矢と言える。


             「春秋左氏伝 定公五年・六年」



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    中国通史で辿る名言・故事探訪(零落の楚)

     「楚の昭王の都落ち」

                     春秋時代

     新興国の「呉」に攻め込まれて、紀元前506年 楚都・郢が陥落する

    前日の11月己卯(16日) 楚の昭王は妹の季羋畀我(きびひが)を

    連れて都から逃げ出し雎水(しょすい)を渡った。

     鍼尹固(しんいんこ)が王と同じ船に乗り、出発前に王は追って来る呉の

    軍に向けて、象の尻尾に火種を縛り付けて放った。

     一行は対岸に着いて、雲夢沢(うんぼうたく)の中に入った。

     昭王が夜眠っていると土賊が攻め寄せて来て、戈で王に撃ちかかった

    が、王孫由于が自らの背中で之を受け止めて、肩に傷を負ったものの

    なんとか彼らを追い払った。

     その後さらに江北に渡り、鄖に逃れた。

     鍾建が季羋畀我を背負って随行し、王孫由于も蘇生して何とか後に

    従った。

     この逃避行には先代の平王に殺された曼成然(闘子旗)の子である

    鄖公(うんこう)の闘辛とその弟の闘懐も同行していた。

     その途中、闘懐は、

     「平王が吾らの父を殺したのだから、吾らもその子を殺しても構わない

    筈だ」として、昭王に殺意を持っていた。

     だが兄の闘辛は、

     「国君が臣下を殺しても、誰も国君を仇だとは思わぬ。

    国君の命(命令)は天命なのだ。若し天命に因って死んだら、誰を仇と

    出来ようぞ。

     強を避け弱を虐(いじ)めるは勇に非ず。

     人の困窮に乗じるは仁に非ず。

     家を滅ぼし祀りを絶やすは孝に非ず。

     行動して評判を落とすは知に非ず。

     どうしてもこれを遣る気なら、吾は汝を殺すしかない」、と戒めた。

     かくして闘辛(鄖公)兄弟は昭王に従って「随」に逃れた。

     呉軍は猶も追撃し、昭王を匿い庇う随の君に引き渡しを勧告した。

     この時 楚王の一行は、随の宮殿の北側に居り、呉の将は南側に居た。

     昭王の兄・子旗は昭王にそっくりだったので、昭王の側に行き代わって

    王の扮装をして随の人に言う、

     「吾を呉に引き渡されよ。王はきっと助かるはずだ」と。

     随の人はその可否を占ったところ、不吉と出たので改めて呉に断り

    を入れた。

     「随は辺境の小国で楚に近接しており、楚に依存して代々 盟約を

    重ねてきたものです。危難が迫ったからとて、楚を見捨てるようなこと

    では、今後貴国にも奉仕出来なくなります。

     そちらの悩みは昭王だけではないはず。

     もし撤退して楚の境内を安撫して下されば、如何なる指示にも従い

    ます」と。

     呉は納得して撤退したが、随のこの強い出方の背景には、公子・子旗

    の臣下であった鑢金(りょきん)の事前工作があったからである。


                     「春秋左氏伝 定公四年」



    テーマ : 中国古典・名言
    ジャンル : 学問・文化・芸術

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     河野長生   tyouseimaru

    Author: 河野長生 tyouseimaru
    出身地は四国八十八か所参りの発心の阿波、大阪を終の棲家とする。
    歴史好きで、城郭・神社仏閣・歴史遺跡巡りが趣味となる。

    令和元年5月22日、マイブログが、アマゾン kindle版として
    その題名も「中国通史の心に響く名言集」として出版されました。

    自薦
    自著「中国通史で辿る名言・故事探訪」は、上・中・下の3巻あり、 余りにも大部な書となってしまった。 そこで内容を圧縮して「ブログ」として、活路を見出した。 それで、かなり減量したものとなった。 今後はさらに読みやすいブログを目指して、工夫を加えるなどして、 補記訂正してゆきたいと思っています。       
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