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    中国通史で辿る名言・故事探訪(魯・昭公十六年)

     「習いは実に常となる」

                     春秋時代

     日常の「習わし」というものは、いつの間にか日常茶飯事(平常のこと)

    と為るものである。

     魯・昭公十六年(前526年)、昭公(25代)は供奉していた子服昭伯

    と共に晋から魯に帰国した。

       ※ 子服昭伯は、魯の有力者であった子服恵伯(孟椒ともいう)の子。

     ある日のこと、子服昭伯は季平子(季孫意如)に語りかけた。

     「晋の公室は、それ将に遂に卑(ひく)からんとす。

      君は幼弱、六卿は彊(つよ)くして奢倣(しゃほう)なり。

      将に是によりて以って習わんとす。

      (=やがては是が習わしとなろう。)

      習いは実に常(つね)と為る。

      能く卑(ひく)きこと無からんや」と。

      (=どうして衰えないことがありましょうか。)

     季平子は、

     「お前はまだ若い、国の将来が読めるものか」

     と言って、信じなかったがその年の冬、晋の昭公(30代)の葬儀に

     参列して、いみじくも悟る所となった。

                        「春秋左氏伝 昭公十六年」

     ☷ 拾遺・弥縫

       書経の

       「習与性成」が出典。

       そもそも習慣というものは、長い年月を経て、生まれつきの性質

      のようになるもの、という意であるが、本来は悪い習慣への戒めが

      本意であった。





     
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    テーマ : 中国古典・名言
    ジャンル : 学問・文化・芸術

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    中国通史で辿る名言・故事探訪(楚の霊王の身辺)

    「伍子胥に先立つ復讐劇」

                      春秋時代

     楚の霊王(27代)は、呉を脅かす目的で呉の同盟国・徐に出兵し

    包囲した。時に紀元前531年のことである。

     霊王は国境近くの乾谿(かんけい)に行在して、後方から支援した。

     そして翌春になっても霊王は、国都に帰還しなかった。

     そのため人々は徭役に苦しみ、人心は次第に霊王から離れようとした。

     霊王は曽て[申の会盟]の際、越の大夫・常寿過を辱め、蔡の大夫・

    観起を殺したことがあった。

     観起の子である観従(かんしょう)は、亡命して呉の呉王に仕えて復讐

    の機会を窺っていた。

     そして遂にこの機を捉えて、呉王余昧に楚攻略の進言をなし、越の大夫・

    常寿過に働きかけて呉・越をして楚を動乱に巻き込んだ。

     一方では、霊王に臣従していた霊王の弟である棄疾(後に即位て平王)

    に強引に働きかけ、晋に亡命していた公子の子干(比)と鄭に出奔して

    いた公子・子晳を呼び戻して、鄧の地で公子三兄弟の

    協力を誓わせた。


     「人の其の子を愛するや、亦 余(われ)の如くならんか」

     (=愛する子を亡くした親の苦しみとは、このように悲しいものなのか。)


     愛する我が子の死を知って、初めて知る楚・霊王の自戒自得の言葉。

     かくして反乱軍は楚の国都で留守を守る霊王の太子・禄と公子・罷敵を

    攻め殺し、代わって比を立てて王となし、公子黒肱(子晳)が令尹、棄疾

    を司馬として新体制を固めた。

     観従は反乱軍の一部を率いて、霊王の行在所・乾谿に発向した。

     行在所に着くや、観従は霊王に従っている将兵や官吏に対して布告

    した。

     「先ず帰らば所に復せん。後るる者は劓(ぎ)なり」と。

     則ち国では新たに王が即位されたので、直ちに帰国して新王に服する者

    は、その爵禄や封地は従前通りとする。期日に遅れる者は劓刑(ぎけい。

    鼻削ぎ)の処分と為す、と。

     行在所の連中は一斉に浮き足立ち、霊王を見棄てて帰国してしまった。

     霊王はと言えば、国都で大子らの公子が殺されたと知り、車から転落して

    嘆いて言った、

     「人の其の子を愛するや、亦 余の如くならんか」と。

     侍従 曰く、

     「是より甚だし。

     小人老いて、子 無くんば溝壑(こうがく)に落ちんことを知る」と。

     (=卑しい者は年老いて、子が無ければ、溝や谷に転げ落ちて

      死ぬものと考えております。)

     霊王は、

     「吾は今まで人の子を多く殺したので、こうならない訳にはいかなかった

    のだな」と自得した。

     右尹・鄭丹(子革)は、王を説いて再起を促すが、王は、

     「もはや衆恕は犯すべからず、大福は再びせず、ただ恥を取るのみ」

    と言って、船で鄭に入ることを望んだ。

     鄭丹は、もはや自分の計策も用いられないことを知り、王の元を去り

    国都に戻った。

     側近からも見放された霊王は、ただ一人で山野を彷徨した。

     三日目にして、偶々 宮中に仕えていた雑役人に出会ったので食い物

    を求めたが、その者は苦しげに、

     「新王の布告により、王様に食物を贈ったり従う者は、罪三族に及ばん、

    と。またこの地では、食べ物を得る手立てもございません」と。

     疲れ果てた霊王は、其の者にもたれかかり、遂には其の膝を枕にして

    寝入ってしまった。

     だがその雑役人は、そっと土塊を盛り上げて自分の膝代わりとして、

    その場を去ってしまった。

     霊王は目が覚めても、立ち上がることが出来なかった。

     この時である、辛亥という者が、亡き父が霊王から受けた大恩を思って、

    霊王を探し求めていたところ、王が釐沢(りたく)で飢えて難渋していた

    のに出会った。
     辛亥は王を連れ帰り世話をしたが、五月のある日に息を引き取った。

     辛亥は二人の娘を殉死させ、王の遺体とともに葬った。

               「春秋左氏伝 昭公十三年」、「史記 楚世家」






     

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    中国通史で辿る名言・故事探訪

     「解けない知恵の輪」

                       春秋時代

     ある時、魯の下民が宋の元公(25代。在位期間 前532年~517年)

    「知恵の輪」を贈ったが、君はどうしても解くことが出来なかった。

     そこで元公は、

     「器用な者は皆、この知恵の輪を解きに至れ」と、お触れを出した。

     しかし、集まった者で誰一人として解ける者はいなかった。

     すると、宋の説客・兒(倪)説(げいえつ)の一人の弟子が、

     「一つ解きに行って参りましょう」と言って、出かけた。

     そして知恵の輪の一つは解いたが、もう一つは解けなかった。

     しかしその弟子は言った、
     
     「解けるものならば、私に解けない訳は無い。

     それは、元々 解けないものなのだ」と。

     そこで、魯の下民を呼び出して確認させたところ、

     「その通りです。元々 解くことの出来ないものなのです。

     私はこれを作って解けないものだということを知っているのですが、

    あの人は自分で作ったものでもないのに、解けないことをご存じなのです

    から、私よりも巧者なのです」と言った。

     つまり、この兒説の弟子は、知恵の輪を解かないことによって解いたと

    言えるのである。

                     「呂氏春秋 審分覧・君分」

      説客(ぜいかく)とは、主に戦国時代に己の弁舌の才を以って、

      戦国諸侯や卿大夫を説いて回り、寄宿した遊説家。

       「韓非子」では、この兒説は宋の大夫となっており、斉の稷下に

      於いて活躍したと。  

     

                        

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    中国通史で辿る名言・故事探訪

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    中国通史で辿る名言・故事探訪(韓非子)

    「逆鱗に触れる」

                       春秋時代

     単に「逆鱗(げきりん)」とも。

     「天子の怒り」の喩え。

     転じて、目上の人の激しい怒りを言う。

     逆鱗の「鱗」は、竜の顎の下にあって逆さまに生えるという鱗であり、

    それに触ると竜は怒って、人を殺すという伝説がある。

     古来、天子は「竜」に譬えられる。

     故に諌説談論の士(君主や貴人に諫言したり、自説を説く者)は、

    愛憎の主を察して、然る後に説かざる可(べ)からず。

    (=主君の自分に対する存念をよく知悉して、その上で己の見解を

     説くべきである。)

     夫(そ)の竜の虫為る、柔なるときは狎れて騎(の)る可きなり。

     然れども其の喉下(こうか)に逆鱗 経尺(一尺ほど)なる有り。

     若し人 之に攖(ふ。=触)るる者有らば、則ち必ず人を殺さん。

     人主 亦 逆鱗有り。

     説く者 能く人主の逆鱗に攖るること無くば、則ち幾(ちか)からん。

     (=自説を勧めて、人主の逆鱗に触れることが無ければ、その期待

      もし得よう。)

                     「韓非子 説難篇」

     ☷ 拾遺・弥縫

       韓非子は、為すことの難しさ進言の難しさを、この故事を一例に

      して説くが、自らのその末路たるや、秦の始皇帝の時代に旧知の

      政敵李斯により罠に嵌められ、哀れにも自裁した。


     

     

     

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    tyouseimaru 河野長生

    Author:tyouseimaru 河野長生
    出身地は四国八十八か所参りの発心の阿波、大阪を終の棲家とする。
    歴史好きで、城郭・神社仏閣・歴史遺跡巡りが趣味となる。
    歴史小説や時代小説を好み、往年の著名な時代小説の類は概ね完読と、自負している。

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    自著「中国通史で辿る名言・故事探訪」の 上・中・下の3巻を、 近い内に「電子書籍」での出版を予定しています。 今年一年間は、さらに工夫を加えるなどして、補記訂正などの校正を第一義としています。       
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