
中国通史で辿る名言・故事探訪(楚の霊王の身辺)
「伍子胥に先立つ復讐劇」
春秋時代
楚の霊王(27代)は、呉を脅かす目的で呉の同盟国・徐に出兵し
包囲した。時に紀元前531年のことである。
霊王は国境近くの乾谿(かんけい)に行在して、後方から支援した。
そして翌春になっても霊王は、国都に帰還しなかった。
そのため人々は徭役に苦しみ、人心は次第に霊王から離れようとした。
霊王は曽て[申の会盟]の際、越の大夫・常寿過を辱め、蔡の大夫・
観起を殺したことがあった。
観起の子である観従(かんしょう)は、亡命して呉の呉王に仕えて復讐
の機会を窺っていた。
そして遂にこの機を捉えて、呉王余昧に楚攻略の進言をなし、越の大夫・
常寿過に働きかけて呉・越をして楚を動乱に巻き込んだ。
一方では、霊王に臣従していた霊王の弟である棄疾(後に即位て平王)
に強引に働きかけ、晋に亡命していた公子の子干(比)と鄭に出奔して
いた公子・子晳を呼び戻して、鄧の地で公子三兄弟の
協力を誓わせた。
「人の其の子を愛するや、亦 余(われ)の如くならんか」
(=愛する子を亡くした親の苦しみとは、このように悲しいものなのか。)
愛する我が子の死を知って、初めて知る楚・霊王の自戒自得の言葉。
かくして反乱軍は楚の国都で留守を守る霊王の太子・禄と公子・罷敵を
攻め殺し、代わって比を立てて王となし、公子黒肱(子晳)が令尹、棄疾
を司馬として新体制を固めた。
観従は反乱軍の一部を率いて、霊王の行在所・乾谿に発向した。
行在所に着くや、観従は霊王に従っている将兵や官吏に対して布告
した。
「先ず帰らば所に復せん。後るる者は劓(ぎ)なり」と。
則ち国では新たに王が即位されたので、直ちに帰国して新王に服する者
は、その爵禄や封地は従前通りとする。期日に遅れる者は劓刑(ぎけい。
鼻削ぎ)の処分と為す、と。
行在所の連中は一斉に浮き足立ち、霊王を見棄てて帰国してしまった。
霊王はと言えば、国都で大子らの公子が殺されたと知り、車から転落して
嘆いて言った、
「人の其の子を愛するや、亦 余の如くならんか」と。
侍従 曰く、
「是より甚だし。
小人老いて、子 無くんば溝壑(こうがく)に落ちんことを知る」と。
(=卑しい者は年老いて、子が無ければ、溝や谷に転げ落ちて
死ぬものと考えております。)
霊王は、
「吾は今まで人の子を多く殺したので、こうならない訳にはいかなかった
のだな」と自得した。
右尹・鄭丹(子革)は、王を説いて再起を促すが、王は、
「もはや衆恕は犯すべからず、大福は再びせず、ただ恥を取るのみ」
と言って、船で鄭に入ることを望んだ。
鄭丹は、もはや自分の計策も用いられないことを知り、王の元を去り
国都に戻った。
側近からも見放された霊王は、ただ一人で山野を彷徨した。
三日目にして、偶々 宮中に仕えていた雑役人に出会ったので食い物
を求めたが、その者は苦しげに、
「新王の布告により、王様に食物を贈ったり従う者は、罪三族に及ばん、
と。またこの地では、食べ物を得る手立てもございません」と。
疲れ果てた霊王は、其の者にもたれかかり、遂には其の膝を枕にして
寝入ってしまった。
だがその雑役人は、そっと土塊を盛り上げて自分の膝代わりとして、
その場を去ってしまった。
霊王は目が覚めても、立ち上がることが出来なかった。
この時である、辛亥という者が、亡き父が霊王から受けた大恩を思って、
霊王を探し求めていたところ、王が釐沢(りたく)で飢えて難渋していた
のに出会った。
辛亥は王を連れ帰り世話をしたが、五月のある日に息を引き取った。
辛亥は二人の娘を殉死させ、王の遺体とともに葬った。
「春秋左氏伝 昭公十三年」、「史記 楚世家」
春秋時代
楚の霊王(27代)は、呉を脅かす目的で呉の同盟国・徐に出兵し
包囲した。時に紀元前531年のことである。
霊王は国境近くの乾谿(かんけい)に行在して、後方から支援した。
そして翌春になっても霊王は、国都に帰還しなかった。
そのため人々は徭役に苦しみ、人心は次第に霊王から離れようとした。
霊王は曽て[申の会盟]の際、越の大夫・常寿過を辱め、蔡の大夫・
観起を殺したことがあった。
観起の子である観従(かんしょう)は、亡命して呉の呉王に仕えて復讐
の機会を窺っていた。
そして遂にこの機を捉えて、呉王余昧に楚攻略の進言をなし、越の大夫・
常寿過に働きかけて呉・越をして楚を動乱に巻き込んだ。
一方では、霊王に臣従していた霊王の弟である棄疾(後に即位て平王)
に強引に働きかけ、晋に亡命していた公子の子干(比)と鄭に出奔して
いた公子・子晳を呼び戻して、鄧の地で公子三兄弟の
協力を誓わせた。
「人の其の子を愛するや、亦 余(われ)の如くならんか」
(=愛する子を亡くした親の苦しみとは、このように悲しいものなのか。)
愛する我が子の死を知って、初めて知る楚・霊王の自戒自得の言葉。
かくして反乱軍は楚の国都で留守を守る霊王の太子・禄と公子・罷敵を
攻め殺し、代わって比を立てて王となし、公子黒肱(子晳)が令尹、棄疾
を司馬として新体制を固めた。
観従は反乱軍の一部を率いて、霊王の行在所・乾谿に発向した。
行在所に着くや、観従は霊王に従っている将兵や官吏に対して布告
した。
「先ず帰らば所に復せん。後るる者は劓(ぎ)なり」と。
則ち国では新たに王が即位されたので、直ちに帰国して新王に服する者
は、その爵禄や封地は従前通りとする。期日に遅れる者は劓刑(ぎけい。
鼻削ぎ)の処分と為す、と。
行在所の連中は一斉に浮き足立ち、霊王を見棄てて帰国してしまった。
霊王はと言えば、国都で大子らの公子が殺されたと知り、車から転落して
嘆いて言った、
「人の其の子を愛するや、亦 余の如くならんか」と。
侍従 曰く、
「是より甚だし。
小人老いて、子 無くんば溝壑(こうがく)に落ちんことを知る」と。
(=卑しい者は年老いて、子が無ければ、溝や谷に転げ落ちて
死ぬものと考えております。)
霊王は、
「吾は今まで人の子を多く殺したので、こうならない訳にはいかなかった
のだな」と自得した。
右尹・鄭丹(子革)は、王を説いて再起を促すが、王は、
「もはや衆恕は犯すべからず、大福は再びせず、ただ恥を取るのみ」
と言って、船で鄭に入ることを望んだ。
鄭丹は、もはや自分の計策も用いられないことを知り、王の元を去り
国都に戻った。
側近からも見放された霊王は、ただ一人で山野を彷徨した。
三日目にして、偶々 宮中に仕えていた雑役人に出会ったので食い物
を求めたが、その者は苦しげに、
「新王の布告により、王様に食物を贈ったり従う者は、罪三族に及ばん、
と。またこの地では、食べ物を得る手立てもございません」と。
疲れ果てた霊王は、其の者にもたれかかり、遂には其の膝を枕にして
寝入ってしまった。
だがその雑役人は、そっと土塊を盛り上げて自分の膝代わりとして、
その場を去ってしまった。
霊王は目が覚めても、立ち上がることが出来なかった。
この時である、辛亥という者が、亡き父が霊王から受けた大恩を思って、
霊王を探し求めていたところ、王が釐沢(りたく)で飢えて難渋していた
のに出会った。
辛亥は王を連れ帰り世話をしたが、五月のある日に息を引き取った。
辛亥は二人の娘を殉死させ、王の遺体とともに葬った。
「春秋左氏伝 昭公十三年」、「史記 楚世家」
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