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    中国通史で辿る名言・故事探訪(中国最初の成文法・刑鼎)

     「鄭の子産、刑鼎を鋳る」

                        春秋時代

     鄭の宰相である子産は、魯・昭公六年(前536年)三月、鄭の15代

    簡公の御世に中国最初の成文法である「刑書」を鼎に鋳込んだが、

    之を称して「刑鼎」という。

     ところが、鄭の隣国である晋の賢人大夫と言われる叔向(しゅくきょう)

    が、子産の元に次のような書を送ってきた。

     書に曰く、

     「私は以前、子(あなた)に大いに期待を寄せていましたが、今は失望

    しました。

     古昔、先王は事の軽重をその都度計って罰を決め、殊更に刑法を

    制定されなかったのは、法を盾にしての争いを未然に防ごうとしたから

    なのです。

     それでも完全には禁止できなかったので、徳義・礼信によって防ぎ、

    政によって導き、禄位を定め、刑罰の寛厳を使い分け、民に忠誠と善行

    を勧めたのです。

     ところが刑罰の成文法が出来たことを知れば、民には御上を敬う心は

    無くなり、誰もが条文を盾にするようになり治めきれなくなりましょう。

     古の昔、夏に政令を犯す者が現れて「禹刑」が、商に政令を犯す者が

    現れて「湯刑」が、周に政令を犯す者が現れて「九刑」が作られましたが、

    この三刑はいずれも末世のことです。

     今 子は刑を定めてそれを鋳込まれて鼎を作られたという。

     それで民の安定を考えても、到底無理な事だと存じます。

     「詩」に曰う、

         文王の徳に則れば、

         日々四方は靖し。


     さすれば、法などは無用なのです。

     「国亡びんとすれば、法を定むること多し」と吾は聞く。

     これに対して子産は返書して云う、

     「子の言葉に従おうにも、吾は不束者(ふつつかもの)。

     子孫のことまで考え及びません。

     吾は当世の手当てあるのみ。御忠告は忘れません」と。

                    「春秋左氏伝 昭公六年」



      

     

     
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    テーマ : 中国古典・名言
    ジャンル : 学問・文化・芸術

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    中国通史で辿る名言・故事探訪(楚の郟敖)

     「松柏の下には、その草 殖せず」


                        春秋時代

     紀元前544年、楚の25代康王(熊招)が崩じて、四月に葬られた。

     魯・陳・鄭・許の君は葬儀に参列して、正門の外まで見送った。

     そして諸侯の大夫連中は陵墓まで同行した。

     これが、当時の仕来りであった。

     楚ではその後、康王の年少の公子・郟敖(こうごう)が王位に就いた。

     これが26代郟敖(熊員)である。

     王が年少の為、康王の弟の王子圍(熊囲)が令尹(宰相)となる。

     ところで、康王の埋葬に立ち会った鄭の行人(外交の使者)である

    子羽は、楚王の即位の事情を次の如く評した。

     「この即位は不宜(筋道を違えること)というものだ。

     必ず大きな者が、小さな者に取って代わり栄えるであろう。

     松柏の下には、其の草 殖せず」と。

     子羽の予測通り、それから四年後 郟敖は廃されて叔父の令尹である

    王子圍(熊圍)が即位した。これが27代霊王である。

                        「春秋左氏伝 襄公二十九年」 



     

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    中国通史で辿る名言・故事探訪(国君の追放)

    「衛の献公、斉に亡命す」

                      春秋時代

     衛の献公十八年(紀元前559年)、国君たる献公(25代)が卿大夫の

    孫林父(文子)に追放されて、斉に亡命するという悖逆の大事件が生じた。

     献公と孫林父の対立が極限に達しようとした時より少し前に、献公は

    二人の大臣、則ち孫林父と甯殖(惠子)と会食を約束していた。

     そして約束の日に、二人の大臣は朝服を着て参内したが、日が暮れても

    君からのお召しは無かった。

     聞くところによれば、君はまだ御苑で鳥の射に興じているという。

     二人はそのまま御苑に行ったが、献公からは侘びの一言も無かった。

     さすがにその場は怒りを抑えた孫林父であったが、自分の宰邑である

    戚(せき)に戻ってから怒りが爆発した。

     その後 少し冷静さを取り戻した孫林父は、君主との関係を重んじて、

    その後 自分の子である孫蒯(そんかい)を使いに立てて伺候させた。

     ところが献公は、代理で伺候した孫蒯に酒を与えたまま、何を思ったか、

    「詩経の小雅」から巧言を歌えと大師(楽官の長)に命じたが、大師は

    孫林父(文子)を刺激するのを恐れて辞退した。

        ※ 「巧言」とは、力も勇気も無くして乱を企てる者を誹謗する

          内容の歌である。

     ところがその時、献公に対して密かに遺恨を抱いていた楽人の師曹が

    願い出た。

     師曹は以前に、献公の身分卑しき愛妾に手琴を教えるように命じられ、

    その指導中に愛妾を少し鞭打ったことがあった。

     愛妾からその事を聞かされた献公は、激怒して師曹を鞭打たせること

    三百であった。

     師曹はこの歌を聞かせれば、やがて伝え聞いた孫林父が怒り、献公に

    報復してくれれば自分の恨みが癒されると思っての事であった。

     歌を聞いて、果たしてその意味の分かった孫蒯の顔色が変わった。

     彼は戚に飛ぶようにして帰ったが、父に直ちにその旨を報告した。

     改めて腹を据えた孫林父は、先ず国都から妻子を引き取り、ついでに

    衛の良識として尊崇される遽(きょ)伯玉に会って、之から己の為す

    べき行動について、同意を得ておこうとした。

     だが遽伯玉は、

     「国を治めるのは君主であり、理由はどうであれ臣下がどうして、それを

    犯せましょうか」と言い、

     後に 乱を避けるべく国都を出て他所の国を目指して去った。

     献公はその後 さすがにやり過ぎだと思うようになり、三人の公子を

    使者に立てて和解しようと画策したが、時は既に遅く三人の公子は

    殺されてしまった。

     また献公は孫林父の兵に攻め立てられ、献公は遂に斉へ出奔した。

     献公は、それから十二年後(紀元前546年)に帰国して復位することに

    なるが、衛ではその後 孫林父・甯殖に推されて穆公(23代)の孫の

    公孫剽(ひょう)が即位した。

     これが26代・殤公で、孫林父と甯殖が輔佐した。

      ※ 公孫剽は、史記では「姫秋」と記す。

                     「春秋左氏伝 襄公十四年」






     

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    中国通史で辿る名言・故事探訪(晋の悼公と祁奚)

     「祁奚、仇を奨む」

                        春秋時代

     紀元前572年、晋では厲公(27代)崩じた後、姫子周が即位した。

     これが悼公である。

     重鎮の欒書らが、23代襄公の曾孫で周都で勉学中の姫子周を迎え

    入れて即位させたのである。悼公の父は恵伯談という。

     その後 欒書は隠退し正卿の座を韓厥に譲ったが、欒氏一族の権勢

    は次の平公(前557年即位)の初期まで衰えることは無かった。

     悼公は十四歳で即位したが、周都で勉学に励んだだけに凡庸では

    なかったと謂われる。

     賢者を任用し、軍制と軍政を改革したり、対外的には諸侯と会盟したり

    して、晋の最後の名君と称えられたが、秦や楚との戦いが絶えず、その

    戦果は芳しくなかった。

     軍事改革では、「軍尉の官」を創設した。

     中軍の尉に大夫の祁奚(きけい。字は黄羊)をその佐に大夫の羊舌職

    を、司馬には魏絳を起用した。

     上軍及び下軍は省略する。

     晋は逸早く三軍を編成した大国であったが、その中心となる中軍の将

    は全軍の総司令官となる最重要職であった。

     将を補佐するのが佐将であり、佐将を補佐するのが御(御者)である。

     新しく設置された「軍尉の官」は、従来の大夫・卿らの御の管理の他に

    軍警察的な役目も担うようになり、その指揮官は人格識見に優れかつ

    果敢さも要求された。

     悼公のお眼鏡にかなったのが祁奚(きけい)である。

     「祁奚、仇を奨む」

     公平無私な心を称える言葉。

     三年間 「軍尉の官」を務めた祁奚は、引退を願い出た。

     祁奚はその時 悼公に問われた。

     「後任は誰が良いか」と。

     祁奚は応えた。

     「解弧(孤)が良いと存じます」と。

     祁奚は正直な人物で知られ、この解弧も正直な人物であったが、この

    二人はどういう訳か折り合いが悪かったのである。

     お互いに憎み合うことまるで仇敵のような関係にあったので、悼公も

    そのことを薄々は知っていたようであった。

     だから、まさか解弧を推すとは思ってもいなかったが、悼公は何も言わ

    ず、人事は内定した。

     ところが、任命直前になって解弧が死んでしまったのである。

     そこで再び、悼公は祁奚に後任を問うた。

     「誰が良いか」と。

     祁奚は応えて、

     「午が宜しいでしょう」と。

     午は則ち、祁奚の子であった。

     さらに頃を同じくして、副尉の羊舌職が死んだ。

     悼公は、「後任は誰がよいか」と祁奚に尋ねた。

     祁奚は、「彼の倅の赤は、如何ですか」と。

     そこで祁午は中軍の尉に、用舌赤がその佐(副尉)に任じた。

     当時の有識者は祁奚を評して言う

     「これは良い人を挙げたもの。

     仇を推して諂(へつら)いとならず、子を立てて身贔屓(みびいき)と

    ならず、仲間から用いて我が儘とならないとは」と。

                  「春秋左氏伝 成公十八年、襄公三年」



     
     

     

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    中国通史で辿る名言・故事探訪(春秋の妖婦・夏姫)

     「春秋の妖婦夏姫 その3」

                        春秋(東周)時代

      「夏姫、巫臣と共に晋に亡命」

      その後 楚の荘王は夏姫を連尹(弓矢の管理官)の襄老に娶わせた。

      ところがその襄老は紀元前597年、楚晋の戦いである邲(ひつ)の

     戦いにおいて戦死してしまった。

      そして、その遺骸は晋に奪い去られてしまった。

      夏姫は夫の死後、襄老の子・黒要と通じ、さらには巫臣とも通じた

     のである。

      それから幾年かが過ぎた。

      巫臣は人を介して密かに夏姫に伝えた。

      「生国の鄭に帰りなさい。その内に 正式の手続きを踏んで妻として

     迎えるべく鄭に行くつもりだ」と。

      その一方では、鄭伯(鄭の君)に働きかけて、

      「襄老の遺体が届けられるから、間違いなく引き取りに来るべし」

     と、楚に申し入れさせた。

      夏姫がこの報せを荘王に告げると、荘王は巫臣を召してその意見を

     求めた。

      巫臣は何食わぬ顔で応えるに、

      「それ信(まこと)ならん。襄老を討ち取った荀首は成公の寵臣であり、

     且つ中行伯(荀林父)の末弟でもあります。

      その彼は最近、中軍の副将となっております。その上 彼は鄭の皇戌

     とも昵懇なのです。

      ところがこの荀首の最愛の息子の知罃(ちおう)は、我が国の捕虜

     となっている訳です。

      そのような訳で、晋は捕虜の交換を考えておるのではないでしょうか。

      鄭にしてみれば、先の邲の戦いで晋に恐れをなし、誼を通じようと

     進んで仲介の労を引き受けたのに相違ございません」と。

      そこで荘王は、夏姫を鄭に帰らすことにした。

      諸々の手筈が整ってから、巫臣は夏姫に対して、後に時宜を見て

     妻として迎える算段のあることを報せた。

      夏姫は故郷の鄭へ旅立つに際して見送り人達に、

      「尸(し)を得ずんば我 反(かえ)らじ」、と。

      我が夫の屍骸を受け取るまでは、楚に帰ることはありません。

      かくして鄭に帰った夏姫は、兄の鄭伯に迎え入れられた。

      準備万端を整えた巫臣は、密かに鄭伯に夏姫を妻として迎え入れたい

     と申し入れ、許されることとなった。

      それから幾年か経ち、楚では荘王が没し(前591年)、共王(熊審)

     が二十四代君主として即位した。

      そして荘王の喪が明けると、共王は斉と盟約を交わして魯を討とうと

     したが、戦いを始める前に、出師の打ち合わせで巫臣を斉への使者と

     して派遣することにした。

      かくして巫臣一行が鄭に到着すると、同行していた副使らに鄭から

     楚への贈り物を持たせて帰国させ、自らは手筈通り夏姫を伴い斉へ

     亡命しようとした。

      ところが思惑が外れて、亡命しようと画策した斉が晋に敗れるという

     急報(紀元589年の鞍の戦い)に接し、急遽 晋の大夫・郤至を頼る

     ことにして、取り敢えずは単身で晋に亡命した。

                     「春秋左氏伝 成公二年」

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    tyouseimaru 河野長生

    Author:tyouseimaru 河野長生
    出身地は四国八十八か所参りの発心の阿波、大阪を終の棲家とする。
    歴史好きで、城郭・神社仏閣・歴史遺跡巡りが趣味となる。
    歴史小説や時代小説を好み、往年の著名な時代小説の類は概ね完読と、自負している。

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    自著「中国通史で辿る名言・故事探訪」の 上・中・下の3巻を、 近い内に「電子書籍」での出版を予定しています。 今年一年間は、さらに工夫を加えるなどして、補記訂正などの校正を第一義としています。       
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