
中国通史で辿る名言・故事探訪(晋・郤克の私怨)
「郤克、斉に使いする」
春秋j時代
紀元前592年春、晋侯(28代景公)は離反した国々
(宋・鄭・陳・蔡)を咎めるべく、断道で諸侯会盟を持つために
郤克を使者として斉に派遣し,斉侯に会盟参加を呼びかけようとした。
ところが斉の頃公は、朝堂に婦人(母堂の蕭同叔子)を呼んで几帳
(仕切りの帳)で隠し、引見する際に脚の悪い郤克を見世物にしようと
した。
それとは知らない郤克が朝堂の階段を昇る様子に、几帳の内の婦人
が笑いたてたので、それと察した郤克は激怒し、すぐさまその場を立ち
去り、自ら誓った。
“ この辱めに報ゆるを得ずんば、再び河(黄河)を渡らず ”、と。
即ち今度 来る時を待っておれ、と復讐の念を燃やしたのである。
※ 後年 鞍の戦いで、中軍の将となった郤克は、斉と死闘を
繰り広げることとなる。
そして自らは一足先に帰ることにし、副使の欒京盧(らんけいろ)に、
「斉が承知するまでは帰って来るな」と言って斉に留めた。
そして帰国後、郤克は晋侯に斉の討伐を請うたが赦されなかった。
ところで斉侯は自分の代理として高固・晏弱・蔡朝・南郭偃を諸侯会盟
に派遣したが、斂盂(れんう)まで来たとき高固だけは、郤克の復讐を
恐れて逃げ帰ってしまった。
即ち、あの人が一度怒れば、事の理非曲直を忘れて事態の収拾が
つかなくなるだろう、と判断したのである。
その後 六月の六日、晋・魯・衛・曹・邾(ちゅう)は断道に会して、
二心ある者を討つ盟約を交わした。
だが晋は斉の参加を拒絶し、待機していた斉の使者の三名を、晏弱
は野王に、蔡朝は原に、南郭は温にそれぞれ足止めさせた。
使いを終えた晋の苗賁皇(びょうふんこう)が野王に立ち寄り晏弱に
出会ったが、帰国してから晋侯に進言し、晏弱らの見張りを緩めさせた
ので、彼らは急ぎ逃げ帰った。
秋七月 晋軍は会盟の地から引き揚げた。
八月 晋では范武子(士会)が隠居し、子の范文子(士燮)が跡を継ぐ
ことになった。
武子は文子に告げて曰く、
「士燮よ、
『喜怒に其の所を得たるは少なく、所を得ざる者多し』と吾は聞く。
詩(詩経 小雅・巧言)にも、
【君子もし怒れば、事の乱れは速やかに止みなん。
君子もし祉(よろこ)べば、事の乱れは速やかに止みなん】とあり、
※ 祉:字義は神の止まる所、即ち神から授かる喜びの意。
君子たる者の正しい喜怒は、世の乱れを止めることが出来るが、
君子たらざる者の下手な怒り方では乱れも止まず、止まなければ
怒りは一層 酷くなるというものだ。
さて郤克は、しきりに斉を懲らしてやろうと怒っているのだが、上手く
いかぬと晋の国内で八つ当たりし、内政の乱れが増しやせぬかと
心配なのだ。
この際 儂は隠居するが、お前は郤子(克)に思う存分やらせて、その
怒りが消えてしまうように持って行くがよい。
つまり、汝はあの方々に謹んで従っておればよいのだ」と。
その後 いよいよ郤克(郤献子ともいう)が執政となった。
「春秋左氏伝 宣公十七年」
春秋j時代
紀元前592年春、晋侯(28代景公)は離反した国々
(宋・鄭・陳・蔡)を咎めるべく、断道で諸侯会盟を持つために
郤克を使者として斉に派遣し,斉侯に会盟参加を呼びかけようとした。
ところが斉の頃公は、朝堂に婦人(母堂の蕭同叔子)を呼んで几帳
(仕切りの帳)で隠し、引見する際に脚の悪い郤克を見世物にしようと
した。
それとは知らない郤克が朝堂の階段を昇る様子に、几帳の内の婦人
が笑いたてたので、それと察した郤克は激怒し、すぐさまその場を立ち
去り、自ら誓った。
“ この辱めに報ゆるを得ずんば、再び河(黄河)を渡らず ”、と。
即ち今度 来る時を待っておれ、と復讐の念を燃やしたのである。
※ 後年 鞍の戦いで、中軍の将となった郤克は、斉と死闘を
繰り広げることとなる。
そして自らは一足先に帰ることにし、副使の欒京盧(らんけいろ)に、
「斉が承知するまでは帰って来るな」と言って斉に留めた。
そして帰国後、郤克は晋侯に斉の討伐を請うたが赦されなかった。
ところで斉侯は自分の代理として高固・晏弱・蔡朝・南郭偃を諸侯会盟
に派遣したが、斂盂(れんう)まで来たとき高固だけは、郤克の復讐を
恐れて逃げ帰ってしまった。
即ち、あの人が一度怒れば、事の理非曲直を忘れて事態の収拾が
つかなくなるだろう、と判断したのである。
その後 六月の六日、晋・魯・衛・曹・邾(ちゅう)は断道に会して、
二心ある者を討つ盟約を交わした。
だが晋は斉の参加を拒絶し、待機していた斉の使者の三名を、晏弱
は野王に、蔡朝は原に、南郭は温にそれぞれ足止めさせた。
使いを終えた晋の苗賁皇(びょうふんこう)が野王に立ち寄り晏弱に
出会ったが、帰国してから晋侯に進言し、晏弱らの見張りを緩めさせた
ので、彼らは急ぎ逃げ帰った。
秋七月 晋軍は会盟の地から引き揚げた。
八月 晋では范武子(士会)が隠居し、子の范文子(士燮)が跡を継ぐ
ことになった。
武子は文子に告げて曰く、
「士燮よ、
『喜怒に其の所を得たるは少なく、所を得ざる者多し』と吾は聞く。
詩(詩経 小雅・巧言)にも、
【君子もし怒れば、事の乱れは速やかに止みなん。
君子もし祉(よろこ)べば、事の乱れは速やかに止みなん】とあり、
※ 祉:字義は神の止まる所、即ち神から授かる喜びの意。
君子たる者の正しい喜怒は、世の乱れを止めることが出来るが、
君子たらざる者の下手な怒り方では乱れも止まず、止まなければ
怒りは一層 酷くなるというものだ。
さて郤克は、しきりに斉を懲らしてやろうと怒っているのだが、上手く
いかぬと晋の国内で八つ当たりし、内政の乱れが増しやせぬかと
心配なのだ。
この際 儂は隠居するが、お前は郤子(克)に思う存分やらせて、その
怒りが消えてしまうように持って行くがよい。
つまり、汝はあの方々に謹んで従っておればよいのだ」と。
その後 いよいよ郤克(郤献子ともいう)が執政となった。
「春秋左氏伝 宣公十七年」
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