FC2ブログ
    コンテントヘッダー

    中国通史で辿る名言・故事探訪(亡国の声)

      「衛の霊公」

                      春秋時代

     紀元前535年、衛の襄公九年八月に28代襄公が崩じて、太子の元が

    即位した。

     元は襄公とその愛妾との間に出来た公子で、襄公には他に後嗣が

    いなかったので大子となっていた。この元が後 しばしば問題を提起する

    二十九代霊公である。

     「亡国の声」 

     「亡国の音」ともいい、 国を亡ぼす原因となる淫靡な音楽。

     単に亡びた国の音楽とも。

     「声」とか「音」は、古代の音楽をいう。

     古代中国では特に儒家にあっては、音楽は君子の修養の手段として、

    更には「礼楽刑政」と併称されるように国家統治の手段として、並々ならぬ

    役割を負わされていた。

     春秋の時代は、概ね正しい音楽が行われれば世は治まり、音楽が乱れ

    れば国は亡びる、と言われたものである。

     衛の霊公が晋を訪れる途中、濮水の湖畔で(衛と晋の間には廃墟がある)

    野営することになった。

     すると夜半に何処からともなく、霊公がそれまで耳にしたことも無い

    ような心地よい琴の音が聞こえてきた。

     霊公が左右の者に、誰が奏でているのかと尋ねたが、誰も音楽は

    聞こえないと口を揃えて応えた。

     そこで霊公は、楽師なら聞こえるだろうと、同行する楽師の涓(けん)

    に命じてその譜を記録させた。

     その後 晋を訪れて、平公(29代)の主催の歓迎の宴席で、霊公は

    返礼の意味で濮水で聞いた珍しい曲を楽師涓に演奏するよう命じた。

     師涓が弾き始めると、晋の楽師 師曠(しこう)が横合いからそれを制止

    した。

     「これは亡国の声です。殷の師延が紂王のために作曲したもので、武王

    が淫を誅滅した際、師延は東に逃げ、濮水に身を投げて死にました。

     そこで、この曲は濮水の湖畔に限って聞こえ、聴けば国を削られること

    になるとの言い伝えがあり、地の人々は、「亡国の声」として忌み嫌って

    おります」と説明した。

     だが平公は耳を貸さず、なおも演奏を続けさせ、悲しい曲を二度、三度

    と所望した。

     するとその内 鶴が舞い降りたり、空に雲が湧き、激しい風雨が起って

    宮殿の屋根瓦を吹き飛ばした。

     宴席の者たちは、散り散りに逃げ惑い、平公は回廊の片隅に身を伏せ

    て難を避けた。

     その後 三年、晋は大旱魃に見舞われ、大地には草木も生ぜず、田畑は

    赤地をむき出しにした。

     平公は奇病を患い、情緒を失ってしまったという。

                       「史記 楽書」

     

    続きを読む

    テーマ : 中国古典・名言
    ジャンル : 学問・文化・芸術

    コンテントヘッダー

    中国通史で辿る名言・故事探訪(呉楚の攻防戦)

    「其の君、兄の子 員を弑して、

      これに代わりて立つに如くはなし」


                    春秋時代

     自分の手で主君たる兄の子・員(うん)を弑殺しておきながら、代わって

    自ら即位するよりはましであろう、の意。

     朱方、棘(きょく)、櫟(れき)、麻、鵲岸(じゃくがん)、房鐘において、

    連年に亘り呉楚の攻防が続いた。

     魯・昭公四年(前538年)秋七月、楚・霊王は諸侯を率いて呉に進攻

    した。

     楚の屈申は朱方を包囲し、八月庚申(二十一日) これを攻略した。

      「慶封の死」

     この戦いにおいて、斉から亡命して来て呉王余昧に厚遇され、朱方の

    邑に封じられていた慶封が捕えられて処刑された。

     この慶封は、その昔 斉の大夫であったが、崔杼が荘公を弑殺すると、

    崔杼に与して荘公の異母弟である景公を擁立した。

     だが、崔杼との間で確執が生じるようになり、遂に崔杼を殺し、さらに

    その一族を族滅させた。

     ところが、その慶封も自分の主だった部下等に追放されてしまい、魯に

    逃れ、さらには呉に亡命して呉王からは厚遇されて、朱方の邑に封ぜられ

    ていた。

     霊王は処刑に先立ち、慶封の旧悪を諸侯の陣営に暴露し、

     「斉の慶封、其の君を弑してその孤(幼君)を弱とし、以って諸大夫に

    盟(ちか)うるに傚(なら)うことなかれ」と戒めて言った。

      (=斉の慶封は君を殺すという大逆を行い、また擁立した君の

       遺児たる幼君を蔑ろにしておきながら、方や諸大夫連中にその

       ような事は見習うべきではないと誓わせた。)

     ところが、慶封も逆襲して言った。

     「楚の共王の庶子・囲(霊王のこと)、其の君 兄の子・麇(きん)を

    弑してこれに代わり、諸侯に盟を強いるようなことは、絶対にやるべきに

    あらず」と。

     ここに於いて霊王は、直ちに刑を執行し、なお且つその一族を誅殺した。

     その冬、今度は呉が楚の棘、櫟、麻に攻め込み、朱方の報復を果たした。

     そして翌年の)冬十月、楚王は蔡・陳・許・頓・沈(しん)の諸侯と東夷を

    率いて、棘・櫟・麻の報復を図った。

     楚のイ射(いえき)は、夏汭(かぜい)で王の軍と合流し、越の大夫・

    常寿過も軍を率いて楚軍に合流した。

     呉軍出動との報に、楚のイ啓疆は軍を指揮して呉軍に当たったが、

    慌てて防備を怠ったので、鵲岸で呉軍に敗れ呉地に侵攻することは

    出来なかった。

                    「春秋左氏伝 昭公四年・五年」



        

      

    テーマ : 戦記
    ジャンル : 学問・文化・芸術

    コンテントヘッダー

    中国通史で辿る名言・故事探訪(晏子と叔向の国の予測談義)

     「賦課に陳氏枡を用い、貸付けには朝廷枡を用いる」

                        春秋時代

     魯・昭公三年(紀元前539年)、斉室から晋室に嫁していた小姜が

    若死したので、その弔問と併せてその後に再び斉室から宮女を入れる

    目的で、斉の景公は宰相・晏子(晏嬰)を晋都に派遣した。

     やがて葬儀も終り斉の懇請も受け入れられた後、やがて晋の賢人

    として知られた叔向(しゅくきょう。羊舌肸ともいう)は、晏子を宴に招き

    互いに忌憚なく語り合った。

     叔向は、斉の現状を問うた。

     晏子は答えて、

     「斉はもう末です。斉が陳氏のものになるのかは吾は言えませんが、

    公室は自分の民を棄てて、陳氏に帰属させています。

     例えばこうです、陳氏は宰領地の民に税を課すに、小さめの陳氏枡

    を用いて納め、貸し付けるには大きめの朝廷枡(基準枡)を用いており

    ます。

     また材木や塩・魚介類の市場の値段は、産地での元値よりも高く

    ならないという有様です。

     朝廷の租税徴収のやり方では、民の収入が三とすると、その二を朝廷

    に納め、残りの一で食べたり着たりしなければなりません。

     人民の苦しさは筆舌に尽くし難く、法は峻厳で足斬りの受刑者が後を

    絶ちません。

     国のあちこちの市場では、普通の靴の値段より義足用の靴の方が

    値段が高いという程なのです。

     そのような状況下にあって、人民の陳氏に対する期待と信頼は推して

    知るべしと言えます」と。

     晏子がかくまで言う斉の国では、曽ては公室の出である高氏と国氏の

    二氏が卿を独占世襲して政治を専断し、軍旅もそれぞれが一軍を保有

    して来たという経緯があった。

     すると叔向が言った、

     「そうでしょう、晋の公室とて同じことです。軍馬は兵車に繋がれず、

    卿大夫は公室の軍を率いず、公車に乗る者に碌な者はおらず、軍列に

    は指揮官がいないという有様。

     人民は疲れているのに宮殿は益々贅沢を極め、道には死人が向かい

    合っているというのに、寵姫の家はいよいよ栄えています。

     晋の公室と同族であり卿となるべき家柄であった、欒(らん)・郤(げき)・

    胥(しょ)・原・孤・続(しょく)・慶・伯の八家は没落してしまい、今や政治

    の実権は卿になることが出来なかった大夫の家にあって、民は何処に

    頼ろうかと迷い、君は君でその日その日を悔いもせず、楽しみごとに耽る

    という有様です。

     公室の衰微はもう間もないことでしょう。

     讒鼎(ざんてい。中傷悪口を鋳込んだ鼎)の銘文に、

     【黎明に起き顕(あらわ)れんと努むるも、後世 子孫なお怠る】

    とあるが、

     まして日ごと反省もしないようでは、とても長くは持たぬでしょう」と。

     晏子が、

     「それならば、貴方はどうなさるおつもりか」と訊ねると、

     叔向は、

     「臣の聞くところ、公室が落ちぶれようとすると、先ず一族の枝葉が

    落ち、それから公室の番になると。

     吾の宗族は十一族ありましたが、今や吾の家の番 羊舌氏だけが

    残っています。

     吾に碌な子も無く、公室は乱れて頼りになりませんから、満足に死ね

    れば幸いで、後は祀ってもらうことなどはあり得ません」と。

                       「春秋左氏伝 昭公三年」、

                       「晏子春秋 問下」


    テーマ : 中国古典・名言
    ジャンル : 学問・文化・芸術

    コンテントヘッダー

    中国通史で辿る名言・故事探訪(戦術の転換期)

     「太原の戦い」

                         春秋時代

     魯の25代昭公の元年(紀元前541年)、晋(29代平公)は異民族の

    「狄(てき)」と「無終」を撃破した。

     晋の卿大夫である中行穆子(荀呉)と魏献子(魏舒)が前線指揮に

    当たった。

     彼らは戦況判断により、春秋時代の常套戦法である戦車戦を歩兵戦に

    戦術転換して、狄と無終を撃破したのである。 

     その戦いに臨んで魏献子は、布令した。

     「彼(狄と無終)は徒戦(歩兵戦)、我は車戦、遭遇する場所はその上

    険阻ときている。

     十人の徒兵を一輛の兵車に付ければ、きっと勝てる。

     敵を険阻の地に追い込めば、さらに勝てよう。

     そこで徒兵の総編成替えを、先ずは吾から始めることにしよう」と。

     かくして兵車を棄てて、徒歩の部隊を主として編成し直し、五輛分

    (十五人)の徒兵を三組の「」と為して、これを編成基準として全軍を

    改編した。

     その一方では中行穆子の寵臣は、徒兵に組み入れられるのを拒んだ

    ので、穆子はこれを斬って全軍に厳しく布告して改編を完了した。

     晋軍に敵対する狄の軍は、之を嘲笑して陣立てを怠っていたが、晋軍は

    五十人の複合編制の一偏を先鋒として、狄軍を期する所の険阻の地に

    誘(おび)き出して、これに肉薄して撃破した。

     この戦い以後、徐々に中原における戦法が、「戦車戦」から「歩兵戦」に

    変化していった。

                       「春秋左氏伝 昭公元年」

    テーマ : 戦記
    ジャンル : 学問・文化・芸術

    コンテントヘッダー

    中国通史で辿る名言・故事探訪(鄭の子産伝記)

     「吾 聞きて、これを薬とせん」

                       春秋時代

     鄭の子産は国政を執ること四十有余年に及んだが、寛厳宜しきを得た

    現実的な政策・外交により、平和な治世を実現し、晋や楚という強国の

    狭間にあって、よく国の内外を治め、春秋時代の名宰相の呼び声も高い。

     この鄭の国では、人々が郷校(都市即ち邑ごとに設けられた学校)に

    集まって、時の政治について得失を論断するという慣わしがあった。

     ところが然明(ぜんめい)という者が、子産に次のように進言した。

     「この悪しき風潮を断つために、郷校を廃止すべきである」と。

     すると子産は、己の思いを語り始めた。

     「どうして廃止する必要があろうか。彼らは朝夕の仕事を終えてから

    学校に集まり、遊びがてらに政治の善し悪しを議論しているのだ。

       ※ 当時の役人は朝と夕方の二回、勤務公所に出勤するという

         制度であった。

     私は彼らが善とするものは取り入れて実行し、その悪とするところの

    ものは改めるように心掛けている。

     彼らは、言うなれば吾が師でもある。廃止するなどとは、とんでもない

    ことだ。

     また、【善しとすることに耳を傾け、人の怨みを減らせ】とは聞くも、

    【威を振りかざして怨みを封じ込め】とは我は聞かず。

     むろん威圧により、其の言を封じ込めることは出来ようが、それは河の

    水を堰き止めるようなものであり、大きく決壊すれば被害は甚大となり、

    そうなっては吾が手では策も施しようがなくなる。

     従って、小さく堤を切って流路を付けた方がよいのだ。

     吾 聞きて、これを薬とせん」、と。

     然明は、子産の意図するところをよく理解して、深くの己を反省した。

     後年になり、仲尼(孔子)は子産のこの言葉を耳にして、己の存念を

    述べた。

     「これから推察すると、子産が不仁だという評判がたとえあったとしても、

    吾は信じはしない」と。

                      「春秋左氏伝 襄公三十一年」



     

    テーマ : 中国古典・名言
    ジャンル : 学問・文化・芸術

    プロフィール
    プロフィール

    tyouseimaru 河野長生

    Author:tyouseimaru 河野長生
    出身地は四国八十八か所参りの発心の阿波、大阪を終の棲家とする。
    歴史好きで、城郭・神社仏閣・歴史遺跡巡りが趣味となる。
    歴史小説や時代小説を好み、往年の著名な時代小説の類は概ね完読と、自負している。

    ランキングに参加しています
    応援よろしくお願いします
    自薦
    自著「中国通史で辿る名言・故事探訪」の 上・中・下の3巻を、 近い内に「電子書籍」での出版を予定しています。 今年一年間は、さらに工夫を加えるなどして、補記訂正などの校正を第一義としています。       
    最新記事
    月別アーカイブ
    最新コメント
    最新トラックバック
    カテゴリ
    天気予報

    -天気予報コム- -FC2-
    おきてがみ
    おきてがみ
    twitter
    フリーエリア
    フリーエリア
    検索フォーム
    RSSリンクの表示
    リンク
    Powered By FC2ブログ

    今すぐブログを作ろう!

    Powered By FC2ブログ

    ブロとも申請フォーム

    この人とブロともになる

    QRコード
    QR
    メールフォーム

    名前:
    メール:
    件名:
    本文:

    <
      /body>