コンテントヘッダー

    中国通史で辿る名言・故事探訪(孔子家語)

     「君は舟、庶人は水なり」


                      春秋時代

     魯の哀公(26代。在位期間 前494~468)が孔子から、

    「人の五儀」について進講を受けた時、問答の最後で、

     「自分は宮中深く 婦人の手で育てられてきたので、未だ曽て

    とか、或はとかということを知らずにきた。

     だから未だ曽て危うきということを知らないので、恐らく教えられた

    五儀を実行する術(すべ)が分らないのだ」と言った。

     それに対して孔子は、言を左右にして何も言わなかったが、哀公の強い

    要望に接して口を開いた。

     哀公が言うところの「哀」から「労」については、具体的な喩え話で教え

    示した。

     更に語り続けて、
     
     「君が思いに耽って城外に出て、周章遠視し、亡国の虚を見れば、必ず

    そうなって運命という者に気付くはずです。

      ※ 周章遠視とは、あちこちと廻り且つ遠くを見つめること。

        亡国の虚とは、滅亡してしまった国々の廃墟。

     君 之をもて懼(おそ)れを思わば、、則ち懼れ知るべし。

     夫れ君は舟なり、庶人は水なり。


     水は舟を載(の。浮べる)す所以なるも、また舟を覆す所以なり。

     君 之を以って「危」を思わば、則ち危を知るべし。

     君 既にこの五者を明らかにして、また少しく意を五儀の事に留むれば、

    則ち政治に於いて何ぞ失うこと有らん」、と。

                     「孔子家語 五儀解」

     

    テーマ : 中国古典・名言
    ジャンル : 学問・文化・芸術

    コンテントヘッダー

    中国通史で辿る名言・故事探訪(荘子)

     「周を魯に行うは、舟を陸に推すが如きなり」

                     春秋時代に比定

     時代は孔子の諸国流浪が始まる頃 西の方 衛に赴いた時のこと、

    孔門に残った弟子の顔淵が師金という人物に占ってもらった。

     「先生の今度の旅行は、どうなるでしょうか」、と」。と。

     即ち師の孔子が果たして希求する開明な君主に巡り合えることが

    出来るのだろうか、と不安な気持ちから問うたのである。

     ところが師金は、

     「残念ながら、師はお困りになることでしょう」、と。

     顔淵がその理由を問うと、師金は語り始めた。

     「例えば祭りに使う藁作りの狗にしても、祭りまでは大事に取り扱わ

    れるが、祭が終われば往来に投げ捨てられたり焚き付けにされてしまう

    ものだ。

     ところが子の師もこれと同様に、遥か昔の先王たちが使い古した藁狗

    とも言うべき「仁義礼楽」を拾い上げ、それを弟子たちを集めてはその

    周りでぶらぶらしたり、寝そべったりしているようなものだ。

     故に樹を宋に伐られ(=宋国で樹木の木陰で説話中、殺されかけた

    こと)、跡を衛に削られ(=衛国ではその足跡を消されるほど排斥され

    たこと)、商・周に窮(くる)しむ。(殷の旧跡や周都での困窮)

     是れ其の夢に非ずや。

     陳・蔡の間に囲まれ、七日 火食(煮炊きした食事)せず、生死相与に

    隣す。(陳蔡之厄災のこと)

     是れ其の眯(べい)に非ずや。

       ※ 眯:べい。まい。

            くるしむ。うなされる。

     其れ水行には舟を用いるに如くはなく、而して陸行には車を用いるに

    如くはなし。

     舟の水に行くべきを以ってして、これを陸に推さんことを求むれば、即ち

    世を没(お。=終)うるまで尋常をも行かず。

     (=船を水上に浮かべず、陸上で押し進めようとすれば、生涯かけても

      わずかな距離でさえ行きかねるだろう。)

     今 周を魯に行わんことを蘄(もと)むるは、是れ猶 舟を陸に推すが

    如きなり。労して功なく、身には必ず殃い(=禍)あり。

     かの三皇五帝の礼儀(礼の秩序)・法度(法制)は、それらが常に同じで

    あったから至尊なのではなく、それらによって世の中が治まる所が尊ばれ

    たのだ。

     元来 礼儀法度というものは、時の推移に応じて変化するものである。

        



    テーマ : 中国古典・名言
    ジャンル : 学問・文化・芸術

    コンテントヘッダー

    中国通史で辿る名言・故事探訪(呉越の内情)

      「越の范蠡の遠謀」

                        春秋時代

      夫椒の戦いで呉に敗れた越王・勾践は、呉王夫差の前に膝行頓首

     の礼(敗者の礼)をして和議を乞うた。

      そして和議が整った後も、そのまま呉に人質として留まっていたが、

     勾践の卑屈なまでに臣従する姿に接して、ようやく呉王夫差に帰国を

     許された。

      勾践は帰国後 国政を范蠡(はんれい)に委ねようと考えた。
     
      だが范蠡は言う、

      「兵甲(軍事)のことは種(文種)、蠡(范蠡)に如かず(及ばない)。

      国家を鎮撫し百姓(群臣)を親附(従わせる)するは蠡、種に

     如かず」と。

      そのような訳もあって結局 国政は大夫・文種に任せることになった。

      そして范蠡は大夫の柘稽と共に、呉に人質として赴くことになった。

     「西施を呉王に献上す」

      越王勾践は会稽の恥を雪ぐために色々と手を打ったが、新たに

     呉王を懐柔するために数多くの金銀財宝を贈り、かつその外にも

     越の何人かの美女を献上したが、彼女らの中には絶世の美女の

     西施(せいし)がいた。

      西施は古代中国の「四大美人」と謂われるほどであったが、呉王への

     彼女の献上を進言手配したのは自らも呉へ人質として入る予定で

     あった范蠡である。

      范蠡は西施の類稀な色香で以って、呉王夫差を骨抜きにすべく、

     越の諜報活動の一環にしようと考えていたのである。

      その范蠡が許されて越に帰国するのは、それから二年後のことで

     ある。

      西施は西子とも言い、越の西湖に近い苧蘿(ちょら)村の薪売り

     の娘として生まれたが、家では蚕を飼ったり、川辺で絹を洗ったりして

     いたが、やがてその類稀な美貌を范蠡に見いだされた。

      ♪  唐代の李太白(李白)  「烏棲曲」

             姑蘇台上 烏棲むの時

             (=呉の都 姑蘇城に棲みついた烏が寝静まる夜)

             呉王宮離 西施に酔う

             (=呉王夫差は王宮の離れに遊んで、西施と共に

              酒に酔いしれる。)


        

      

    続きを読む

    テーマ : 中国古典・名言
    ジャンル : 学問・文化・芸術

    コンテントヘッダー

    中国通史で辿る名言・故事探訪(韓非子)

     「上下(しょうか)の利、是(かく)の若く其れ異なれり」

                        戦国時代

     君の利と民の利は、多くの場合 相反するものである。

     楚人の直躬(ちょくきゅう)という者有り。

     其の父 羊を窃(盗)み、而して之を吏に謁(告)ぐ。

     令尹曰く、「之を殺せ」と。

     以為(おもえ)らく、君に直なれども父に曲なり、と報じて之を罪せり。 

     是を以って之を観れば、夫(かの)の君の直臣は父の暴子なり。

       ※ 暴子とは親不孝者。

     魯人 君に従いて、三度戦い三度北(に)ぐ。

       ※ 北ぐとは敵前逃亡をいう。

     仲尼(孔子) その故を問う。

     対えて曰く、

     「「我に老父有り、身 死せば之を養う者 莫(無)からん」と。

     仲尼 以って孝と為し、挙げて之を上(のぼ)せり。

     是を以って之を観れば、その父の孝子は君の背臣たり。

     故に令尹 誅して楚姦(楚国で起こる邪悪)上聞せず。

      ※ 上聞せずとは、上達しないこと。

     仲尼 賞して魯民、降北(降伏したり敵前逃亡)を易(かろん)ず。

     上下の利、是の若く其れ異なれり。

     而るに、人主 兼ねて匹夫の行いを挙げて、而も社稷の福を致さん

    ことを求む、必ず幾(き)せられじ。

     (=それなのに君は、公の功有る者を私の善行ある者と共に

      取り上げて賞して、国家の福を招こうと望むのは、期待できる

      はずも無い。)

     古者(いにしえ) 蒼頡(そうけつ)の書を作るや、

     自ら営する者 之をと謂い、私に背く 之をと謂う。

     公私の相背くや、乃ち蒼頡 固より以(すで)に之を知る。

      蒼頡が文字を作ったとき、自分だけの為に営む形字を「ム」とし、

        この「ム」に背くの意の古字の「八」を加えて「公」の字とした。

     今以って利を同じくすと為すは、察せざるの患なり。

     (=いまごろ公私の利害が一致すると考えるのは、物事の道理が

      分らぬ過ちだ。)

     若し現実の政治の場に於いて、民(個人)の利が優先され、君(公)の

    利が後回しになるようなことになれば、国は必ず乱れ君は危うい目に

    遭うだろう。

                    「韓非子 五蠧篇」




     

    テーマ : 中国古典・名言
    ジャンル : 学問・文化・芸術

    コンテントヘッダー

    中国通史で辿る名言・故事探訪(孔子伝)

    「孔子の三桓制圧策」

                     春秋時代

     魯の定公九年(前501年)、孔子は政治に携わる重要な官職に就く。

     時に孔子五十歳の頃と言われる。

     陽虎の乱が失敗して陽虎が斉に逃れた後、季桓子は孔子を抱き込もう

    として、彼を中都の宰(長官職)に任じた。

     それから二年後、定公は孔子を司空(土地・人民を司る役)に任じ、更に

    大司寇(司法警察の長)に抜擢した。

     その後、孔子はさらに宰相職を代行するまでになる。

     その間に、孔子は何時しか国内の三桓の勢力を削ごうと努力した。

     「三桓制圧策」

     孔子は定公に進言した。

     「家は甲(鎧)を臧(おさ。=私蔵)めず、邑は百雉の城無きは古の制

     なり。

     今 三家 制に過ぐ。請う皆 これを損せよ」と。

       ※ 百雉の「雉」は高垣の意で、その高さは一丈、長さは三丈。

          (周代にあっては)

          百雉の城は、城壁のは高さは3メートル、一辺の長さは900

         メートルあり、「国都」の規模である。

          大都になると、その規模は3分の1以下。中都は5分の1.

          小都は9分の1。  

      当時 三桓の季孫氏は「費」に、叔孫氏は「郈」に、孟孫氏は「郕」に

     宰邑があった。

      そして後の昭公四年(前538年)には、彼らは国軍を三分して自家

     の私軍とした。

      彼ら三桓は国都の曲阜の居住しており、彼らの宰邑は実質的には

     それぞれの有力家臣に任せていた。

      ところが時代はようやくこれらの有力家臣が実力をつけ、下剋上が

     進行しつつあった。

      そしてこの下剋上の風潮は、何も魯国に限ったことではなかったので

     ある。

      大国の晋や斉などでも、既にその風潮に喘いでいた。

      魯では、季孫氏の家臣であった先の陽虎の乱は当にその先駆けでも

     あった。

      定公十二年(前498年)、ようやくにして定公から認められた孔子は、

     三桓氏の代官の専横を抑えるという名目で以って、それぞれの当主の

     了解を取り付けた。

      孔子は季孫氏の宰となっていた弟子の仲由(子路)らに指揮を取らせ、

     三邑の破壊を命じた。

      そして定公十二年(前498)、叔孫氏は郈を破壊したが、季氏が費の

     取り壊しにかかると、費の宰・公山不狃と叔孫氏の庶子・叔孫輒が示し

     合わせて、費の兵士を指揮して逆に国都・曲阜を急襲した。

      身の危険にさらされた定公は、三桓と一緒に季孫氏の邸宅に一時

     避難したが、勝敗は容易に決しなかった。

      その内 漸く攻勢に出た三桓の勢いに費の軍勢は敗走し、姑蔑で

     敗れた。

      費軍の指揮車たる公山不狃と叔孫輒は斉に逃れた。

      かくして孔子は、遂に季孫氏の「費」の城壁を破却した。

      一方、孟孫懿子(何忌)の「郕」の家宰・公斂処父は、郕の位置が

     斉国に近く、防衛上の観点からも孟孫氏に城壁破却の不利をしきり

     に説いた。

    「郕を破却すると、斉が直ちに国都の北門にやってきますぞ。

      何と言っても郕は、孟氏に無くてはならない堡塁なのです。

      郕が滅べば孟氏も亡びますぞ。

      ここは子(あなた)は知らぬ振りをして下さい。吾が策を弄します」と。

      そこで孟氏は遂に破却することに反対を表明した。

      冬 十二月、城壁破却の命を受けた軍が郕を包囲したが、攻略する

     ことは出来なかった。

      結局 孔子の思惑は中途で挫折することとなった。

      さらにその後 城壁破却の不利を悟った季孫氏からも不信を買う

     ことになり、政治的にも孔子の立場は非常に弱まった。

      「少正卯の誅殺」

      その当時 魯の国内で政治・思想上の問題で混乱の元凶となり、

     孔子一門に敵対していた有力な思想集団の頭領で大夫でもあった

     少正卯(しょうせいぼう)を孔子は処刑した。

      即ち思想上の理由から、政治上の政敵を躊躇することなく抹殺して

     しまった。手段を択ばない言論の弾圧としか言いようのない処置で

     あった。

      だが好事魔多しといい、その後 三桓勢力は再び勢いを回復して

     おり、隣国の斉の国からも魯の国力の充実には危険視されるように

     なり、その目標を孔子に定めて再三謀略が仕掛けられるようになった。

              「春秋左氏伝 定公十二年」、「史記 孔子世家」

      「孔子の政治への訣別」

      斉では魯が孔子を任用してから、僅か三カ月で国が大いに定まる

     のを知り大いに恐れた。

      そこで斉は、善隣友好の名の下に斉国内の美女で舞楽を能くする

     者八十人を選んで魯に送り込んだ。

      魯の君臣をして声色に溺れさせ、政治を怠らせ、且つ賢人を執政の

     場から去らせようとの謀略であった。

      魯の最大の実力者である季桓子は君にそれを勧め、自らも楽しみに

     耽り政治を怠るようになった。

      君が賢人を用いながら女楽に耽るのは、賢を侮ることであり、朝議が

     永く行われないのは礼を棄てることである。

      孔子は魯の政治に失望し、魯を離れる決心をした。

      それ以後、十余年に亘る流浪の旅出となった。


      

     



     

     

    続きを読む

    テーマ : 中国古典・名言
    ジャンル : 学問・文化・芸術

    プロフィール
    プロフィール

     河野長生   tyouseimaru

    Author: 河野長生 tyouseimaru
    出身地は四国八十八か所参りの発心の阿波、大阪を終の住処とする。
    歴史好きで、城郭・神社仏閣・歴史遺跡巡りが趣味となる。

    令和元年5月25日、マイブログがアマゾン kindle版として
    その題名も「心に響く中国歴史名」として出版されました。

    自薦
    自著「中国通史で辿る名言・故事探訪」は、上・中・下の3巻あり、 余りにも大部な書となってしまった。 そこで内容を圧縮して「ブログ」として、活路を見出した。 それで、かなり減量したものとなった。 今後はさらに読みやすいブログを目指して、工夫を加えるなどして、 補記訂正してゆきたいと思っています。       
    最新記事
    月別アーカイブ
    最新コメント
    カテゴリ
    天気予報

    -天気予報コム- -FC2-
    おきてがみ
    おきてがみ
    twitter
    このブログの訪問者
    検索フォーム
    RSSリンクの表示
    リンク
    Powered By FC2ブログ

    今すぐブログを作ろう!

    Powered By FC2ブログ

    ブロとも申請フォーム

    この人とブロともになる

    QRコード
    QR
    メールフォーム

    名前:
    メール:
    件名:
    本文:

    <
      /body>