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    中国通史で辿る名言・故事探訪(春秋左氏伝)

     「楚の白公の乱」


                      春秋時代

     伍子胥が楚から逃亡した当初は、楚の太子・建と行動を共にしていた。

     だが鄭国で手厚く庇護されていた時に、太子建は晋の誘致に応じて、

    晋と組んで鄭国乗っ取りの陰謀を画策したが、その陰謀は太子建自身の

    性格の粗雑さが原因となって卑賎の部下に背かれ露見して殺害されて

    しまった。

     そこで伍子胥は、太子建の遺児・勝を伴って呉への亡命を図った。

     だが途中で、勝とははぐれてしまった。

     ところが後になって勝の存在が、楚の恵王(二十九代)の知るところと

    なり、楚国に迎えられて鄢の地に封ぜられ白公と名乗らせた。

     彼は楚に帰ると、父の建が鄭国に殺されたのを恨み、復讐すべく兵を

    集めその時期を待っていた。

     それから五年目に、その願いが令尹(宰相)の子西により許された。 

     だが楚の軍が未だ発しない内に、晋が鄭国を侵攻した。

     そして鄭国が楚に救援を求めてきたので、楚王は子西を将として救援させ、

    戦後 鄭国と盟を結んで帰国したのであった。

     白公は大変怒って、

     “ 鄭人ここに在り、讐 遠からず 

     と言いふらし、自ら剣を磨いた。

     この有様を見た子期の子の平が、白公に尋ねた。

     “ ご自分で剣を磨いてどうなさるおつもりですか ”と。

     白公は、

     “ 我は正直で通っているので、隠すわけにもいくまい。

       実はこの剣であなたの叔父・子西を殺すつもりだ ” 、と。

     平が子西にその話をしたところ、

     “ 白公は私にとって謂わば大切な卵だ。

      私はこの卵を大事に育ててきた。私の亡き後 令尹、司馬などの職を

     継ぐのは、順序から言っても白公を置いて他にはいない。

      その勝がそんな馬鹿げたことをするはずがない ”、と取り合わなかった。

      だが白公は、参謀の石乞に命じて、着々と手勢を揃えていた。

    ある時 呉が楚の地を侵寇したが、白公はこれを撃退して、楚王に

     捕虜と戦利品を献上したいと申し出た。

      そして時至れりとして反乱を起こし、令尹の子西と子期の二人を朝廷で

     殺害し、さらには恵王に迫って退位させようとした。

      当時 葉公(しょうこう)は蔡の地にいたが、国人を動員して遂に白公を

     山に追い詰めて自害させ、ここに乱は平定された。

      葉公は令尹として乱後の始末をした後には、令尹の職を子西の子に、

     司馬の職は子期の子に譲り、自らは葉の地に隠棲した。

                    「春秋左氏伝 哀公十六年」



       

       

      

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    テーマ : 四書五経
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    中国通史で辿る名言・故事探訪(衛の政変)

     「君子 死すとも、冠は免がず」


                        春秋時代末期

      子路(季路とも。姓は仲、名は由。孔子の高弟)は、衛の大夫の

     孔悝(こうかい)に仕える陪臣であったが、衛で内乱が起こった時は

     任地にいて、乱の知らせで急ぎ衛都に駆け付けた。

      子路は衛都に着くと直ちに城門を目指したが、途中で内乱発生に

     際して衛国を棄てて逃げて行く同門(孔門)の子羔(しこう。高柴とも)

     に出会った。

      だがその頃(前479年)には既に乱は収束し、蒯聵(かいかい)が

     君位に就いていた。これが31代荘公である。

      子羔は、

      「城門は既に閉ざされているぞ」と、忠告したが子路は、

      「吾はとにかく行ってみよう」と答えた。

      子羔はそれでも、

      「もう間に合わないであろう。難儀にかかわるべきではない」と、

     忠告した。

      子路は、

      「禄を受ける身だ(孔悝から)。難儀は覚悟の上だ」、と答えた。

      子羔はそれ以上は言わず、去っていった。

      子路は出公への義を立て且つ主人の孔悝を救出しようと、乱を

     なした蒯聵に対して楯突いた。

      子路が城門に達したころ、公孫敢が城門を守っていたが、

      「入ることはならぬ」と言って、城門を開けようとしなかった。

      だが押し問答をしている内に、使者が城門から出てきたので、子路は

     その隙に乗じて場内に駆け込んだ。

      そして時を置くことなく、太子蒯聵の元に半ば拘束されている孔悝の

     いる所に近づき、

      「太子、どうして孔悝を利用する必要がありましょう。たとえ孔悝を

     殺しても、必ずその跡を継ぐ者がありますぞ」と叫び、

      さらに、「太子は勇なし。若し臺(高楼)の半ばを燔(焼)かば、必ず

     孔淑を舎(赦)さん」と脅しをかけた。

      慌てた孔悝は、石乞と盂黶(うえん)に命じて子路に立ち向かわせた。

      子路は戦い際 相手の戈(ほこ)で冠の紐を断ち切られたが、

      「君子は死すとも、冠を免(ぬ)がず」と言って、

     纓(えい。冠の紐)を締め直して奮闘したが敢え無く討ち死にした。

      後に、孔子は衛の内乱を聞いて曰く、

      「柴(さい。子羔)や、其れ来たらん。由(仲由。子路)や死せん」と。

      孔悝は結局、太子蒯聵を擁立して即位させた。これが荘公である

      後に、蒯聵は子路の屍を塩漬けにして晒し者にした。



     

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    中国通史で辿る名言・故事探訪(不倶戴天の呉と越)

     「姑蘇の戦い」

                       春秋時代

     紀元前482年 越王勾践は雌伏十二年にしてようやく、呉王夫差の

    不在に付け込み、呉都を攻める決心をした。

     この呉王の長期不在は、夫差が野望に燃えて覇者たらんとして、黄地

    に諸侯会盟を主催しようとして生じた間隙であった。

     越王勾践にとって、敗北による忍び難き忍従を重ねてきたので、遂に

    「会稽の恥」を雪ぐための復讐の好機が到来したのである。

     呉王夫差は、呉都とから遠く七百キロも離れた斉の地に主力軍を率い

    て諸侯会盟の為 壮途についていた。

     従って国都には、太子・友と一万弱の老若兵しか残っていなかった。

     魯・哀公十三年(前482年)六月丙子(13日)、越軍四万五千は二手に

    分かれて出陣した。

     范蠡(はんれい)を将とする軍は、淮河を水軍を以って制した。

     之は夫差の帰国を阻止するための戦略であった。

     一方 勾践は主力軍を率いて呉に攻め入った。

     呉の王孫弥庸は、泓水の岸から敵軍を視察したところ、昔日の呉越の

    戦いで捕虜となった父の軍旗を見つけ出したので、太子友の止める

    のも聞かず、五千の軍団を率いて出陣し、これに王子地が援助した。

     乙酉(22日)、両軍は戦端を開いたが王孫弥庸は、越の疇(ちゅう)

    無餘を、王子地は謳陽をそれぞれ捕獲したが、越王の来援を境にして

    王子地は防禦の陣を張った。

     翌日 丙戌(23日) 会戦となったが、越軍は呉軍を大破して太子友・

    王孫弥庸・寿於姚を捕獲し、翌日の丁亥(24日) 呉国に侵入し、姑蘇城

    は陥落した。

     後に太子友は殺され、夫差の誇った華やかな呉都はことごとく灰塵に

    帰した。

     この呉都陥落の報は、直ちに遠征先の夫差に伝達された。

            
                   「春秋左氏伝 哀公十三年」

     

    テーマ : 戦記
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    中国通史で辿る名言・故事探訪(斉の内紛 収まらず)

     「晏孺子から悼公へ」


                      春秋時代

     前490年、斉では久しく君臨してきた26代景公(呂杵臼)が没した。

     また春秋の名宰相として斉で重きをなした晏嬰は、既に亡くなっており、

    ここに至って陳からの亡命貴族の田氏(亡命前は陳氏という)一族と

     建国以来の名族である高氏、国氏、晏氏、鮑(ほう)氏などの有力貴族

    の政権争いが起った。

     前489年 先ず景公の遺命を奉って景公の妾腹の子の荼(と)を

    高張と国夏が擁立して即位させた。これが27代晏孺子である。

     同年冬十月 公子嘉・公子駒・公子黔(けん)は衛に逃れ、公子陽生・

    公子鉏(しょ)は魯に逃れた。

     田乞(陳乞)は個人的には高氏や国氏に擦り寄り、味方する振りを

    しては、敵対する大夫連中を始末することを仄めかした。

     その一方では朝廷に於いて、大夫の席では国氏・高氏の二人の

    横暴を吹き込みその排斥を蠢動した。

     するとこれに賛同する鮑牧は、陳乞と共に他の大夫らを引き入れて、

    遂に魯・哀公六年(前489年)夏六月戊辰(五日)、武装兵を率いて

    公宮に攻め込んだ。

     かくして陳乞らは、斉の両翼と云われた高張と国夏を追放し、晏孺子

    の年長の兄弟である公子陽生を魯から呼び戻して即位させた。

     これが二十八代悼公(呂陽生)である。

     なお国夏は莒(きょ)に逃れ、高張は魯に逃れた。

     晏孺子とその生母は追放されたが、悼公の意を受けた毛朱が晏孺子

    を駘(たい)に遷し、未だ到達しない内に野外の帳幕の内で殺した。  

               「春秋左氏伝 魯・哀公六年・七年」



     

      

    テーマ : 中国古典・名言
    ジャンル : 学問・文化・芸術

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    中国通史で辿る名言・故事探訪(呉越の戦い)

     「檇李(すいり)の戦い」

                     春秋時代

     魯・定公十四年(紀元前496年)、越王の5代勾践(姓は姒)は呉軍

    を破り呉王の24代闔閭(姓は姫)を死に至らしめる。


     これから、歴史的には少し前後して遡ることになるが。

     呉は楚に対する攻略が成り、楚の国力が弱まったのを契機として

    目を南方に向けるようになった。

     即ち呉の戦略目標が楚から越に転じたのである。

     この年 4代越王の允常(いんじょう)が亡くなり、呉の戦略としては

    当に戦機至れりと謂うところであった。

     当時 越は新興国としてその実力は未知数であったが、呉は先に

    大国の楚を撃ち破ったという大いなる自信があり、越 何するものぞ、

    とばかりに征討軍を進発せしめた。

     両国軍は杭州湾の北岸の檇李(すいり)で衝突した。

     先に攻撃を仕掛けたのは越軍で、越の決死隊が二度も呉軍に突入

    したが、呉軍は陣を乱すこともなくこれを屠った。

     越軍は今度は作戦を変えて、囚人部隊を三組編成し、彼らの全ての

    襟には剣を付けさせて呉軍に突入させ、集団自殺を演出して敵軍の

    耳目を覆うという戦法に非ざる、敵の意表を衝くという深い陰謀を以って

    挑んだ。

     彼ら決死部隊は呉軍に体当たりする前に、その指揮官は呉の将士に

    向って声高らかに口上を述べた。

     「我等は出陣するに際して、軍令を犯すという不行き届きを致した。

     処刑されるはもとより覚悟の上であるが、我等はそれより前に進んで

    自らの手で頸を掻き切って御覧に入れよう」、と。

     言い終わるや、全員が襟の短剣を手にして自らの首を刎ね挙げた

    のである。

     比類し難い多くの血しぶきが一斉に舞い上がり、流石の呉軍もその

    意外性と命知らずの度胸に動揺を来し、恐怖心に駆られながらも目は

    自ずと彼らに集中した。

     果せるかな呉の全軍に、僅かの隙が生じた。

     その隙を捉えて越軍は攻撃態勢を整え、方や伏兵を呉軍の陣の左右

    に迂回させ、怒涛の如く雪崩れ込ませた。

     そして時を同じくして、正面の越の主力軍も突入したので、虚を衝か

    れた呉の陣営は大いに乱れ、呉王闔閭はわずかな供周りに護られつつ

    兵を退いたが、その際 越の大夫の霊姑孚(れいこふ)の戈に足の親指

    を斬られ片方の靴を取られた。

     闔閭は檇李の北方七里の陘(けい)で陣を立て直したが、闔閭は足の

    傷が原因(破傷風か)で呆気なくこの世を去った。

                      「春秋左氏伝 定公十四年」


     ☷ 拾遺・弥縫

      「越の死を賭した囚人部隊」

       春秋末期から戦国時代にかけて重罪を犯した者は、其の罪 三族・

      九族に至ると謂われるほどの極刑であった。

       それほどの罪でなくても、一族が皆 奴隷に身を落すということも

      珍しくなかった。

       「十八史略」によれば、囚人部隊は二十人で一隊をなし、三隊で

      六十人と記す。

       越王勾践は、これらの罪人をその身に代えて一族を救ってやり、

      自由な身となして以後もその面倒を看てやろうと約束し、罪人も自ら

     よく納得して潔く国の為に死んでいくことを望んだと記す。


      「韓非子寓話」より。
      
      「怒蛙に式(しょく)す」

      君侯が勇士を尊重すること。

      最高指揮官たる君侯が怒る蛙(カエル)に「車上の礼」をするの意。

      越王勾践が呉を討とうと画策していた。

      そして人民が死を恐れず命を軽んじることを願っていた。

      ある日のこと、車で居城を出た時 路上に怒気を発して腹を膨らま

     せている一匹の蛙を見た。

      勾践は車の上からその蛙に向って、式(しょく。敬礼)したのである。

         式とは、車上の礼であり、車の前方装置である横木(軾)

          に手を載せて、上体を屈めて敬礼する礼法。

      勾践の従者が言った、

      「どうして之を敬せられますか」と。

      勾践曰く、

      「あれには勇気があるからだ」と。

      翌年 自分の首を献上したいと願い出る者が、その年だけで十余人

     あったという。

                  「韓非子 内儲説上」





     

        

    テーマ : 戦記
    ジャンル : 学問・文化・芸術

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     河野長生   tyouseimaru

    Author: 河野長生 tyouseimaru
    出身地は四国八十八か所参りの発心の阿波、大阪を終の住処とする。
    歴史好きで、城郭・神社仏閣・歴史遺跡巡りが趣味となる。

    令和元年5月25日、マイブログがアマゾン kindle版として
    その題名も「心に響く中国歴史名」として出版されました。

    自薦
    自著「中国通史で辿る名言・故事探訪」は、上・中・下の3巻あり、 余りにも大部な書となってしまった。 そこで内容を圧縮して「ブログ」として、活路を見出した。 それで、かなり減量したものとなった。 今後はさらに読みやすいブログを目指して、工夫を加えるなどして、 補記訂正してゆきたいと思っています。       
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