中国通史で辿る名言・故事探訪(春秋時代の楚)
「伍尚・伍員兄弟の別れ」
春秋時代
楚の平王の時代、太子建の太傅であった伍奢は平王の喚問を受けた。
平王の佞臣・費無忌が王に讒言していたのである、
「太子建と伍奢は、父城によって離反を企て、晋や斉の支援を恃み、
楚を苦しめんと画策中です」と。
喚問の席で、費無忌と伍奢はお互いに舌戦を繰り広げたが、費無忌は
王の泣き所を攻めた。
「王、今 制せずんばその事(太子の陰謀) 成る。
王 当に禽(とりこ。=虜)にせられん」と。
この一言で王の腹は決まった。伍奢は監禁の憂き目を見ることになり、
別件で召喚していた父城の司馬・奮揚に大子殺害を命じた。
伍奢の子で、大夫の伍尚とその弟の伍員(ごうん。字は子胥)は国内
では逸材の誉も高く名を馳せていた。
若し彼らの父の伍奢を死罪にすると、後で何を仕出かすか分らない
ので、偽りの手紙で二人を呼び出し、父とともに処断しようとの謀が密かに
練られた。
楚王は彼らを召させて曰く、
「来たれ。吾 而(なんじ。=汝)の父を免(ゆる)さん。
来たらずんば、吾 而の父を殺さん」と。
ところが、伍尚と伍員の二人は直ちに、それが偽りの手紙だと見抜き、
善後策を相談した。
楚の君大夫、其れ旰食(かんしょく)せんか」
(=楚の君主や重臣連中は、その内 多事多難で暇も無くなろう。)
☞ 旰食とは、夜遅い時刻に食事すること。
本義は、天子諸侯などが、ことのほか政務などに熱心なこと
を言った。
伍尚は弟に向って、
「お前は呉に行け。吾は都に戻って死のう。
吾の知恵はお前には及ばぬ。だから吾は死にに行くが、お前は能く仇を
討て。
父を赦すという命を聞いては、すぐさま駆けつけぬ訳にはいかぬ。
親戚、戮せらる。以って之に報いること莫(な)かるべからず。
(=親が殺されたら、その仇は絶対に討たねばならない。)
死に奔りて父を許さるるは、孝なり。
(=父を救おうとして、召喚に応じて誅殺されることは親孝行である。)
功を度(はか)りて行うは、仁なり。任を選びて往くは、知なり。
(=敵討ちの成算の可否を天秤にかけて実行するのは、篤仁である。
困難な敵討ちの役目を選んで呉に往くのは、英知である。)
死を知りて辟(さけ)ざるは、勇なり。
父は弃(棄)つ可からず。名(家名)は廃す可からず。
※ 伍尚自身の生き様である。
爾 其れ之(敵討ち)を勉めよ。
相従う(召喚に応じて与に死ぬこと)よりは愈(まさ)れりと為す」と。
※ 伍員への付託である。
かくして二人は惜別の杯を交わし、それぞれの信ずる道を歩むこと
になった。
伍尚は直ちに、召喚に応ずるため都に出向いた。
都では彼等の父である伍奢は、伍員が戻ってこないと人づてに
聞いて、それとなく言った、
「楚の君大夫、其れ旰食(かんしょく)せんか」と。
「春秋左氏伝 昭公二十年」
春秋時代
楚の平王の時代、太子建の太傅であった伍奢は平王の喚問を受けた。
平王の佞臣・費無忌が王に讒言していたのである、
「太子建と伍奢は、父城によって離反を企て、晋や斉の支援を恃み、
楚を苦しめんと画策中です」と。
喚問の席で、費無忌と伍奢はお互いに舌戦を繰り広げたが、費無忌は
王の泣き所を攻めた。
「王、今 制せずんばその事(太子の陰謀) 成る。
王 当に禽(とりこ。=虜)にせられん」と。
この一言で王の腹は決まった。伍奢は監禁の憂き目を見ることになり、
別件で召喚していた父城の司馬・奮揚に大子殺害を命じた。
伍奢の子で、大夫の伍尚とその弟の伍員(ごうん。字は子胥)は国内
では逸材の誉も高く名を馳せていた。
若し彼らの父の伍奢を死罪にすると、後で何を仕出かすか分らない
ので、偽りの手紙で二人を呼び出し、父とともに処断しようとの謀が密かに
練られた。
楚王は彼らを召させて曰く、
「来たれ。吾 而(なんじ。=汝)の父を免(ゆる)さん。
来たらずんば、吾 而の父を殺さん」と。
ところが、伍尚と伍員の二人は直ちに、それが偽りの手紙だと見抜き、
善後策を相談した。
楚の君大夫、其れ旰食(かんしょく)せんか」
(=楚の君主や重臣連中は、その内 多事多難で暇も無くなろう。)
☞ 旰食とは、夜遅い時刻に食事すること。
本義は、天子諸侯などが、ことのほか政務などに熱心なこと
を言った。
伍尚は弟に向って、
「お前は呉に行け。吾は都に戻って死のう。
吾の知恵はお前には及ばぬ。だから吾は死にに行くが、お前は能く仇を
討て。
父を赦すという命を聞いては、すぐさま駆けつけぬ訳にはいかぬ。
親戚、戮せらる。以って之に報いること莫(な)かるべからず。
(=親が殺されたら、その仇は絶対に討たねばならない。)
死に奔りて父を許さるるは、孝なり。
(=父を救おうとして、召喚に応じて誅殺されることは親孝行である。)
功を度(はか)りて行うは、仁なり。任を選びて往くは、知なり。
(=敵討ちの成算の可否を天秤にかけて実行するのは、篤仁である。
困難な敵討ちの役目を選んで呉に往くのは、英知である。)
死を知りて辟(さけ)ざるは、勇なり。
父は弃(棄)つ可からず。名(家名)は廃す可からず。
※ 伍尚自身の生き様である。
爾 其れ之(敵討ち)を勉めよ。
相従う(召喚に応じて与に死ぬこと)よりは愈(まさ)れりと為す」と。
※ 伍員への付託である。
かくして二人は惜別の杯を交わし、それぞれの信ずる道を歩むこと
になった。
伍尚は直ちに、召喚に応ずるため都に出向いた。
都では彼等の父である伍奢は、伍員が戻ってこないと人づてに
聞いて、それとなく言った、
「楚の君大夫、其れ旰食(かんしょく)せんか」と。
「春秋左氏伝 昭公二十年」