コンテントヘッダー

    中国通史で辿る名言・故事探訪(零落の楚)

     「楚の昭王の都落ち」

                     春秋時代

     新興国の「呉」に攻め込まれて、紀元前506年 楚都・郢が陥落する

    前日の11月己卯(16日) 楚の昭王は妹の季羋畀我(きびひが)を

    連れて都から逃げ出し雎水(しょすい)を渡った。

     鍼尹固(しんいんこ)が王と同じ船に乗り、出発前に王は追って来る呉の

    軍に向けて、象の尻尾に火種を縛り付けて放った。

     一行は対岸に着いて、雲夢沢(うんぼうたく)の中に入った。

     昭王が夜眠っていると土賊が攻め寄せて来て、戈で王に撃ちかかった

    が、王孫由于が自らの背中で之を受け止めて、肩に傷を負ったものの

    なんとか彼らを追い払った。

     その後さらに江北に渡り、鄖に逃れた。

     鍾建が季羋畀我を背負って随行し、王孫由于も蘇生して何とか後に

    従った。

     この逃避行には先代の平王に殺された曼成然(闘子旗)の子である

    鄖公(うんこう)の闘辛とその弟の闘懐も同行していた。

     その途中、闘懐は、

     「平王が吾らの父を殺したのだから、吾らもその子を殺しても構わない

    筈だ」として、昭王に殺意を持っていた。

     だが兄の闘辛は、

     「国君が臣下を殺しても、誰も国君を仇だとは思わぬ。

    国君の命(命令)は天命なのだ。若し天命に因って死んだら、誰を仇と

    出来ようぞ。

     強を避け弱を虐(いじ)めるは勇に非ず。

     人の困窮に乗じるは仁に非ず。

     家を滅ぼし祀りを絶やすは孝に非ず。

     行動して評判を落とすは知に非ず。

     どうしてもこれを遣る気なら、吾は汝を殺すしかない」、と戒めた。

     かくして闘辛(鄖公)兄弟は昭王に従って「随」に逃れた。

     呉軍は猶も追撃し、昭王を匿い庇う随の君に引き渡しを勧告した。

     この時 楚王の一行は、随の宮殿の北側に居り、呉の将は南側に居た。

     昭王の兄・子旗は昭王にそっくりだったので、昭王の側に行き代わって

    王の扮装をして随の人に言う、

     「吾を呉に引き渡されよ。王はきっと助かるはずだ」と。

     随の人はその可否を占ったところ、不吉と出たので改めて呉に断り

    を入れた。

     「随は辺境の小国で楚に近接しており、楚に依存して代々 盟約を

    重ねてきたものです。危難が迫ったからとて、楚を見捨てるようなこと

    では、今後貴国にも奉仕出来なくなります。

     そちらの悩みは昭王だけではないはず。

     もし撤退して楚の境内を安撫して下されば、如何なる指示にも従い

    ます」と。

     呉は納得して撤退したが、随のこの強い出方の背景には、公子・子旗

    の臣下であった鑢金(りょきん)の事前工作があったからである。


                     「春秋左氏伝 定公四年」



    テーマ : 中国古典・名言
    ジャンル : 学問・文化・芸術

    コンテントヘッダー

    中国通史で辿る名言・故事探訪(呉・楚の戦い)

     「柏挙の戦い」

                     春秋時代

     紀元前506年、呉の波状攻撃と陽動作戦により、楚軍は大敗を喫す。

     呉王闔閭(姫光。24代)は伍子胥と孫武らを率いて、楚の江漢平原

    に侵入し、楚軍を大破し、楚の国都・郢(えい)を攻略した。

     この戦いは、伍子胥にとっては積年の怨念を晴らす復讐戦でもあった。

     「前哨戦」

     周・敬王十年(前511年)、呉王闔閭は兵を発して淮河の支流を遡り、

    楚の北方にある城父と東方にある潜や六(りく)の弱小国に奇襲を

    かけた。

     楚はそれぞれに対して、援軍を出して応戦した。

     すると呉軍は退き、楚軍は呉軍に戦意無しとして、軍を還した。

     次に呉軍は淮河の上流にある弦を襲った。弦はより楚の拠点に近い

    地である。

     当然 楚軍は迎撃した。呉軍はまたしても撤兵した。
     
     呉軍は、そしてこのような波状攻撃を数年にわたり繰り返し、楚軍を

    疲弊させ厭戦気分に陥れた。

     ※ 「春秋左氏伝」では、この攪乱戦法を伍子胥の戦略と為す。

     「豫章の戦い」

     魯・定公二年(前508年)、楚の属国である「桐国」がその反旗を

    翻した。即ち呉による揺さぶりが功を奏したのである。

     秋、楚の昭王は叔父の令尹・囊瓦(子常)を総司令官に任じ、呉に

    兵を進めて豫章に陣を張った。

     呉は伍子胥を指揮官に任じ、豫章に水軍を出動させると見せかけて

    おいて、その一方では密かに巣に陣を設営しようとした。
     
     冬十月、伍子胥は多くの軍船を淮水の豫章周辺に浮かべ、敵の眼を

    こちらに惹きつけようとする陽動作戦を取り、その一方では呉の主力軍

    を密かに巣へ転進させた。

     楚軍の囊瓦は、呉軍の主力軍を見誤ってしまった。

     かくして楚の主力軍は江上(淮水の上流)に集中し、楚の陸上の軍は

    手薄となってしまった。

     楚軍が淮水を下って安慶に出たところで、巣に潜伏していた呉の主力

    軍は楚軍の背後を奇襲したので、楚軍はあっけなく壊滅してしまった。

     呉軍は巣城を占領し、楚の公子繁を捕獲した。

     「最終戦・柏挙の戦い」

     魯・定公四年(前506年)、楚の属国である蔡国と唐国が呉に誼を

    通じてきた。即ち以前に伍子胥の建議に基づき、呉王が両国に通謀

    の密使を派遣していたのである。

     楚の豫章方面の防備は極めて堅固であったので、正面攻撃を避け、

    淮河の上流にある唐国と中流にある蔡国の加勢があれば、その堅固

    な防衛線を撃破できると策を立てたのであった。

     呉王闔閭は主力軍を率いたが、孫武と伍子胥は水軍を率いて淮河

    を遡上し、中流で蔡国軍と合流した後、陸路を取った。

     その後 桐伯山脈を越え、麓にある三関内の唐国軍と合流した頃には、

    呉の主力軍も到着し、ここで改めて三カ国連合軍を編成して楚の中枢で

    ある江漢平原を目指した。

     呉の連合軍は、江漢平原にある楚の拠点を次々と攻略していった。

     楚は再び令尹・囊瓦を総司令官に任じ、大軍を動員して迎撃しようと

    した。

     左司馬・沈尹戌(しんいんじゅつ)の献策を受けて、楚軍を二手に分け、

    主力軍は囊瓦をして漢水の防衛線を堅く守らせ、別働隊は漢水を遡上

    して南陽盆地に入り、さらに東に進み淮河に停泊する呉の軍船を焼き

    払わせてから、三関を奪取して呉軍の退路を断つという作戦を立てた。

     ところが囊瓦の主力軍は、沈尹戌率いる別働隊の攻撃を待たずに

    漢水を渡河して、直ちに呉軍に攻撃を仕掛けたのである。

     楚の主力軍は数を恃んで、呉軍を東へ押し出し柏挙で留まった。

     十一月庚午(七日)、呉楚両軍は柏挙に陣を張った。

     「臣は義にして行い、命を待たず」

     闔閭王の弟・夫概は、早朝 闔閭王 に進言し、自ら奇襲攻撃を買って

    出たが許されなかった。

     夫概の進言とは、

     「楚の囊瓦は不仁にして、士卒も必死の覚悟がありません。だから

    真っ先に囊瓦の直属部隊を攻めれば、必ず逃げ出します。

     その後に呉が大軍をぶっつければ必ず勝てます」と。

     夫概は、

     「所謂 臣は義にして行い命を待たずとは、其れ此れを之れ謂うなり。

     今日 吾死せば、楚に入るべきなり」

     (=今日死ぬつもりで楚都に侵攻すれば、出来ないことも無かろう。)

     と言って、単独軍事行動を起こした。

     ここに於いて夫概は、五千の精鋭を率いて楚の大軍に立ち向かい、

    戦機の頃合い宜しきを得て、大いに楚軍を撃破した。

     大軍を率いた囊瓦は敗走したが、呉軍は猛追して鄖水(うんすい)に

    於いて更に楚軍に深い傷口を与えた。

     沈尹戌軍は囊瓦軍敗走の知らせに、漢水と鄖水に挟まれた擁澨

    (ようぜい)の地で防戦に努めたが、呉軍の勢いを止めることが出来ず、

    この戦いで楚軍は五戦して五敗という惨めな負け戦となった。
     
     楚軍にはもはや、国都の郢(えい)を防衛する戦力は無く、間もなく

    陥落した。

                   「春秋左氏伝 定公四年」



     

     

    続きを読む

    テーマ : 戦記
    ジャンル : 学問・文化・芸術

    コンテントヘッダー

    中国通史で辿る名言・故事探訪(論語)

    「斉の晏嬰、孔子の仕官を妨害す」

                      春秋時代

     今は亡き魯の昭公(24代君主。在位期間 前541年~510年)が

    斉に亡命していた頃、それに前後して図らずも孔子が斉を訪れていた。

     孔子は後に、斉の卿大夫である高昭子の家臣となり、斉の26代景公

    (在位期間 前547年~490年)に近づく機会を窺っていた。

     やがて孔子の念願は叶って、景公に謁見できることになったが、その

    謁見の席上で景公は、政の要諦を孔子に質疑しようとした。

     景公、政(まつりごと)を孔子に問う。

     孔子対えて曰く、

     君君たり、臣臣たり、父父たり、子子たり。

     (=国を治めるのは、人倫の道を明らかにするのが肝要であるという

      前提に立って、

       朝廷に於いては、君は君の道を尽くし、臣は臣の道を尽くし、一家に

      於いては、父は父の道を尽くし、子は子の道を尽くすべきである。)

     公曰く、

     「善い哉、信(まこと)に如(も)し君君たらず、臣臣たらず、

    父父たらず、子子たらずんば、粟(ぞく)ありと雖も吾 得て諸(これ)

    喰わんや」と。


     (=よい言葉だ。人がそれぞれの道を尽くさなければ、人倫が破れて

      禍乱が生じるであろう。

       そうなれば斉の国に食う物があっても、どうしてこれを食うことが

      出来ようか。)

     景公は自分の淫乱贅沢は差し置いて、曽ての自国の臣下の不義

    不忠(崔杼の乱など)に思いを致し、孔子の説に感服して彼を任用しよう

    と考えた。

     ところが、その君に異を称えた人がいた。

     人望篤い春秋時代の名宰相と謂われた晏嬰(あんえい)である。

     晏嬰は儒家の思想が形式を重んずる余り、現実的政策が無く財政

    を逼迫させかねないと危惧し、強いては国家存立の為に宜しくないと

    考えていた。

     この晏嬰の進言に、結局 景公は孔子の任用を思いとどまった。

     この晏嬰の妨害にあって仕官の道を閉ざされた孔子であったが、

    孔子は晏嬰を褒め称えた。

     「晏嬰は人との交際が巧みで、永く接していると皆、晏嬰を尊敬する

    ようになる人だ」、と。

                    「論語 公冶長篇」




    テーマ : 中国古典・名言
    ジャンル : 学問・文化・芸術

    コンテントヘッダー

    中国通史で辿る名言・故事探訪(春秋 晋末の動静)

      「佛肸の賢母」

                     春秋時代

     晋の末期、卿大夫である趙簡子(生没年 前516~458)の封地

    で事件は起こった。

     趙氏の法によれば、臣下がその任地で謀反を起こせばその身は

    死罪、その家族は収監と決まっていた。

     佛肸(ふつきつ)の謀反が鎮圧された後、佛肸の母は収監され、今 

    当に判決が下されようとした。

     母は判決に先立ち申し述べた。

     「私への死罪は不当でございます」と。

     獄吏がその理由を聞かんとするも、母は応じず、

     「趙の君に取次いで下さらねば、申されません。

     さもなければ死ぬのみです」と。

     ようやく獄吏を通じて趙の君に取次がれ、母は遂に面会を果たすことが

    出来た。

     趙の君は問う、

     「死が不当と云うのは如何に」と。

     母は尋ね返した。

     「何故 私が死罪になったのですか」と。

     趙の君 曰く、

     「息子が謀反を起こしたからだ。」

     母 曰く、

     「息子が謀反を起こしたら、何故 私が死罪になるのですか。」

     君、

     「子供をよく教育できなかったから、謀反を起こすに至ったのだ。

     その母が死罪に当たらないということがあろうか。」

     母、

     「ああ、君にはこの私を納得させられる言い分がおありかと思って

    おりましたが、何と母の教育が悪かったなどと仰るとは。

     私の母としての努めは、もうとっくに終わっております。

     私はこう聞いております。

     【子供が、幼い時に傲慢なのは母の罪である。

     成長してから規則に従わないのは父の罪である】と。

     息子は幼いときは、傲慢ではありませんでした。

     成長した後も、規則に従っていました。

     だから私には何の落ち度もございません。

     又、こうも聞いております。

     【子供は小さいときは子供だが、成長すると友となり、

     夫が死んだ後は好きなようにさせてやるものだ】と。

     私は、君の為に子を成長させて差し上げました。

     君は、自ら選んで息子を家臣となさったのです。

     さらには息子を抜擢なさったのも君であり、もはや息子は君の家臣

    であって、私の息子ではないのです。

     謀反という暴逆の臣下をお持ちになったのは君であり、私が暴逆の

    息子を持った訳ではありません。


     ですから、私は無罪だと申し上げているのです」と。

     君は言った、

     「よし相分った。佛肸の謀反は吾の罪だ」と。

                   劉向 「列女伝 弁通伝」

     

     

     

     

       

     

      

    テーマ : 中国古典・名言
    ジャンル : 学問・文化・芸術

    コンテントヘッダー

    中国通史で辿る名言・故事探訪(晋末の動静)

     「佛肸、趙簡子に叛く」

                     春秋時代 

     晋の末期の四卿時代、卿大夫・趙簡子は自分の「晋陽」という封地を

    賢臣の董閼于(董安于とも)に采配させていたが、彼の下には尹鐸(いん

    たく)という偉才を付けて輔佐させていた。

     そんなある日のこと、趙簡子の別の封地の「中牟(ちゅうぼう)」の

    邑宰を務める佛肸が主に叛いた。

     佛肸は決起の後に民衆を集めて、知行の地と煮炊きに使う鼎を用意

    して、言い放った。

     「吾に味方する者は、この地を与えられる。味方しない者は、この鼎

    で煮ることにする」と。

     中牟の人は、皆 佛肸に味方した。

     ところが、城北に住む余子(「羨卒」という余りの兵)の田基という者が

    一人だけ遅れてやって来た。

     そしてなんと着衣をたくし上げて、当に鼎に入ろうとして言った。

     「私はこう聞いております。

      道義を貫く人は、高官の地位が眼前にあっても道義に反すれば、

    その地位に就こうとはしないもの。

     また刑罰の具が背後にあっても、道義の為の死であれば、それを

    避けはしないものです。」

     そう言ってから、田基が鼎に入ろうとすると、佛肸は取り押さえて

    それを止めさせた。

     やがて趙簡子が中牟を攻略して再び支配下に収めると、功労のあった

    者を詮議して田基をその第一に挙げた。

     すると田基は言った、
     
     「私はこう聞いております。

     【清廉な人は他人に恥ずかしい思いをさせたりはしないものだ】

     と。」

     若し私がこのようにして中牟で功労があった者とされれば、中牟の人

    は一生恥かしい思いをすることになるでしょう」と。

     そして彼は母を背負って南の方に向い、楚の国に移った。

     楚王は、田基が道義を貫いたことを高く評価し、司馬(将軍の属官)

    の待遇で迎え入れた。

      ※ 当時の軍制では、人民の各戸は、「正卒」として一人を軍役

        に付ける決まりがあった。

         そしてその他を「羨卒(予備兵)」として、「余子」と言った。

                     「説苑 立節」



     

    テーマ : 中国古典・名言
    ジャンル : 学問・文化・芸術

    コンテントヘッダー

    中国通史で辿る名言・故事探訪(晋の末期)

     「一挙にして三物 俱(とも)に至る」

                      春秋時代

     晋の卿大夫・趙簡子は、大夫の成何と渉佗の二人を派遣して、

    衛の霊公(29代)と剸沢(せんたく)という地で会盟させた。

     会盟の席上で、霊公が未だ血を啜って盟わない前に、成何と渉佗の

    二人は霊公の手を押しのけて盃を押さえてしまった。

     晋の二人の目に余る無礼に接して霊公は怒り心頭に発し、密かに

    今や形骸だけとなった晋に代わる事実上の「趙」に叛こうとした。

     衛の大夫の王孫商は、君に助言した。

     「君 趙に叛かんと欲せば、百姓と同じく之を悪(に)くむに如かず」と。

     ☞ 春秋左氏伝・定公八年の伝では、王孫商は王孫賈と記す。

     霊公は問い質す。

     「どうすればよいか」と。

     王孫商曰く、

     「吾に命じて、国中に布令を出さしめよ。

     曰く、

     「『姑姉妹女あるものは、家ごとに一人 趙に人質たれ』と。

      ※ 姑姉妹女とは、ここでは姑・姉・妹・幼女の意。 

     百姓必ず怨まん。君よりて之に反せよ」、と。

     霊公は、「良し」とばかりに同意した。

     そこで布令が下され、三日の間に女たちは召し寄せられ、五日の内に

    命令は果たされた。

     だが衛の人民は皆、街中で嘆き悲しんだ。

     頃は良しとばかり、霊公は大夫連中を朝議に召集し、謀って曰く、

     「趙 無道を為す。之に反して可ならんか」と。

     大夫 皆曰く、

     「可なり」、と。

     乃ち西門より出でて東門を閉づ。

     (=反抗の意志を示して、防備を固めること。)

      ※ 中国古代においては、東は主人が着座する席であった。

         そこから、都城の主要門を東門といった。

     趙氏はその声を聞いて、渉佗を縛して之を斬り衛に謝罪の意を表した。

     もう一人の成何は燕に亡命した。

     子貢(孔子の弟子)曰く、

     「王孫商は能く謀れりと謂うべし。

     人を憎んで能く之を害し、患あるに能く之に処し、民を用いんと欲して

    能く之に附く。

     一挙にして三物俱至る。能く謀ると謂うべし」と。

                   「説苑 権謀」

     

     

    テーマ : 中国古典・名言
    ジャンル : 学問・文化・芸術

    プロフィール
    プロフィール

     河野長生   tyouseimaru

    Author: 河野長生 tyouseimaru
    出身地は四国八十八か所参りの発心の阿波、大阪を終の住処とする。
    歴史好きで、城郭・神社仏閣・歴史遺跡巡りが趣味となる。

    令和元年5月25日、マイブログがアマゾン kindle版として
    その題名も「心に響く中国歴史名」として出版されました。

    自薦
    自著「中国通史で辿る名言・故事探訪」は、上・中・下の3巻あり、 余りにも大部な書となってしまった。 そこで内容を圧縮して「ブログ」として、活路を見出した。 それで、かなり減量したものとなった。 今後はさらに読みやすいブログを目指して、工夫を加えるなどして、 補記訂正してゆきたいと思っています。       
    最新記事
    月別アーカイブ
    最新コメント
    カテゴリ
    天気予報

    -天気予報コム- -FC2-
    おきてがみ
    おきてがみ
    twitter
    このブログの訪問者
    検索フォーム
    RSSリンクの表示
    リンク
    Powered By FC2ブログ

    今すぐブログを作ろう!

    Powered By FC2ブログ

    ブロとも申請フォーム

    この人とブロともになる

    QRコード
    QR
    メールフォーム

    名前:
    メール:
    件名:
    本文:

    <
      /body>