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    中国通史で辿る名言・故事探訪(名剣伝説)

     「干将莫邪の伝説」

                      春秋時代

      古代中国では、青銅が重視され、鉄は劣悪な金属と見做されていた。

      したがって当時は金といえば銅のことであり、鉄は「悪金」と称された。

      鉄の故郷といわれるオリエント地方では、紀元前十二世紀には鍛鉄

     法により鉄器を製造していた。

       ※ 史上初めて鉄製武器を手にしたのは、古代帝国のヒッタイトで

         ある。ヒッタイトは紀元前十五世紀に突如として出現し、紀元前

         千百九十年頃には滅亡した。

          ヒッタイトはその鉄の製造法を長らく国家的秘密にしたが、滅亡

         する頃には既にオリエントの周辺諸国に知られていた。

      その一方 中国では、殷代の遺跡から既に鉄器は発見されていた

     という。そして戦国時代が、青銅器から鉄器時代への移行期だと言わ

     れる。

      その前後において、比較的高熱を発生させるための送風装置の

     鞴(ふいご)が発明されて、鋳鉄法(銑鉄の鋳型流し込み)が開発された。

      ところが鋳鉄法による鉄は、硬いけれども脆いという欠点を克服する

     ことが出来ず、その用途も限られていた。

      だが春秋時代も中期なると、ようやく中原諸国で農耕具として改良が

     加えられて、鉄製農工具は穀物増産に多いに寄与するようになった。

      だが一般的な武器の素材としては未発達であった。

      時代は戦国時代になり、飛距離の長い「弩(ど)」の矢の主材として、

     鉄も用いられるようになった。だが青銅器技術の高度に発達していた秦

     などでは、春秋戦国時代を通じて最後まで鉄製武器が用いられることは

     なかった。

      古来から中国の名剣と言えば、いずfれも青銅製の代物であった。

      戦国時代でもっとも有名な刀匠は、呉の欧冶子(おうやし)であり、その

     弟子に干将がいた。 

      欧冶子の作である「純鈞」という名剣は、市を有する郷が二つ、駿馬

     千頭、千戸の邑(村)二つ分の値打ちがあるとも言われた。

                          「越絶書」

      また巷間、「魚腸剣」と言われる名剣も欧冶子の作である。 

      春秋末期の呉越の抗争時代、王位簒奪を図った王子光(後の呉王闔閭) 

     の命を受けた刺客専諸は、宴席にあっても鎖帷子で厳重に身を固めていた

     王僚を、ほんの一瞬の隙を見出して、捧げた持った料理の魚の中に仕込ん

     だ短剣で刺殺した。

      その剣が後に 「魚腸剣」と名づけられた。 

                       「史記 刺客列伝」

      ※ 歴史に名を残した名剣に、銘は不明ながら「属鏤(しょくる)」

        という妖刀がよく知られる。

         妖刀たることの由来は、呉王・夫差に仕えた伍子胥と越王勾践

        に仕えた大夫の文種という呉・越の大功臣の命を奪ったことによる。


     「干将莫邪の伝説」



      「干将・莫邪」は、古代中国の陰陽・無双剣の名称である。

      春秋時代の末期のこと、干将は呉の刀匠であったが、楚王の命により

     剣を作ることになった。

      干将は早速 精選された銅の地金を集め,二振りの剣を鋳造しようと

     したが、三年経っても銅を溶解させることが出来なかった。

      そのうち漸く初歩的な鞴(ふいごう)を得て、多くの童女に吹かせたが、

     彼の妻の莫邪はその長い髪と爪を切って、必死の思いを込めて炉中に

     投げ込んだので、遂に胴を熔かして鋳造することが出来た。

      妻の莫邪の協力を得て苦心の末に、陰と陽の二振りの剣が出来上がる。

      その剣には夫婦の名に因んで、陽剣を干将、陰剣を莫邪と名付けた。

      二振りの剣を作っていた時 妻は身籠っていたが、いよいよ剣を王に

     献上する日がやってきた。

      干将は先ず楚王にその剣を一振り披露したが、王はその見事さに

     驚嘆した。

      だが、王がこのような名剣がまた他人のために作られることを畏れ、

     もしかして私は剣を献上した後に、殺されるかもしれないと思った。

      そこで出来上がった二振りの剣のうち 陰の剣・莫邪だけを献上する

     ことにした。

      そして妻に向かって言い聞かせた。

      「王宮に出かけてから、私の身にもしものことがあれば、将来生まれて

     くる子が男の子であったなら、成長後 わが仇を討たせよ。

      そして、

      『門を出でて南山を臨めば石の上に松が生え、剣はその背にあり』

     と告げよ」と言い残して王宮に向かった。

      果たして覚悟の通り、干将の思いは的中し殺害されてしまった。

      後 生まれた子は男の子で、眉間尺と名付けられた。

      眉間尺は成長してから、父の遺言を知ることとなった。

      そして父の残した暗号の謎を解き、家の礎石に立つ松の柱の後ろ部分

     をを斧でたたき割り、名剣の干将を取り出した。

      眉間尺の敵討ちが始まった。しかし相手は国王のことでもあり、事は

     思うとおりに運ばなかった。

      そのうち国王もこの眉間尺の企みを知るところとなり、その首に懸賞金

     をかけて追及することとなった。

      眉間尺は山中に隠れ時節を待っていた時 旅の男と知り合いになり、

     敵討ちの協力を得るまでになった。

      そして旅の男は思い余った末に、決死の一計を勧めた。

      眉間尺の首と陽剣(干将)を携えて王の元へ行き、その謁見の隙を窺って

     王の首を切るというものであった。

      眉間尺は躊躇いもなく、立ったまま潔く自ら自裁した。

      旅の男は、「汝に背かず」と言うと、立ったままでいた眉間尺の屍体が

     崩れ落ちた。

      その後 眉間尺の友となった旅の男は、その首を持って楚王の所へ

     行き、激しい怨念を抱いて死んだ者の祟りを抑えるため、

      「これは勇士の首ですから鑊(かく)で煮なければなりません」と助言。

        ※ 鑊とは、罪人を煮殺すのに使う釜で、刑具の一種。

      果たして眉間尺の首は三日間煮続けられたが溶解せず、熱湯の中で

     首が跳ね上がり、目をむいて怒る有様であった。

      旅の男が、

      「この士の首はどうしても煮えませんが、王様が直々に御覧なされば

     溶けてしまうものですが」と言うと、

      王は言われる通りに鑊の傍らまで行った。

      旅の男は、この時を逃さず王の首を鑊の中に切り落としてしまった。

      そして返す刀で己の首を掻き、鑊の中に落とした。

      鑊の中では三つの首が皆 煮えとろけて、まったく識別不能となって

     しまった。

      そこでこの三つの首は同時に葬られることとなった。

      人呼んでこれを「三王墓」と言った。

                         東晋 葛洪 「眉間尺」

      
      

     
       



                        

    テーマ : 神話伝説逸話
    ジャンル : 学問・文化・芸術

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    中国通史で辿る名言・故事探訪(覇権争い)

     「呉と晋、盟主を争う」

                     春秋時代

     呉王夫差は国の精兵を擁して中原の潢(黄)地に至り、晋の定公(32代)

    と盟主の地位を争った。

     当時における事実上の覇者は、晋の定公であった。

     夫差は大軍を擁して中原に至り、晋王と盟主の地位を争っていたが、

    国内の防衛を疎かにしていたのでその虚を衝かれて、卑屈にも呉に

    臣従していた越王勾践に本国が急襲され攻略されてしまった。

     その報は直ちに夫差の元に届いたが、諸侯会盟の盟主が決しない

    この時、機敏に軍を国元に反すことは出来なかった。

     そこで夫差は、敗戦を急報して来た七人の使者の首を刎ねて、その事実

    を隠蔽した。

     紀元前482年七月辛丑(8日)、潢地の盟約に際して、どちらが牛耳を

    執るかで論争があった。

     呉人曰く、

     「周室に於いて、我は長たり」と。

     (=周王朝との歴史的親疎の関係から言うと、我が呉国に長幼の順が

      ある。)

     晋人曰く、

     「姫姓に於いて、我は長たり」と。

     (=周王朝の多くの姫姓との関係から言えば、我が晋は代々その兄たる

      伯であり続けたのだ。)

     だが晋では趙簡子が司馬寅に、

     「我ら二臣が決死の覚悟で臨めば、いずれが先になるか決まるはずだ」と。

     すると司馬寅は、

     「先ず呉の様子を見てまいりましょう」と言って、敵情偵察に出かけた。

     そして帰って来てから言った、

     「今 呉王の顔色が優れない。

     国都に何かあったか、あるいは太子が死んだかです。

     それに夷人(呉人を見下して)は心が軽く辛抱が無いので、しばらく

    待ってみましょう」と。

     果たして呉は、晋に覇権を譲った。

     晋が地理的にも近くて、いつでも大軍を繰り出すことが出来るというのが、

    その最大の理由である。

           「春秋左氏伝 哀公十三年」、「史記 呉太伯世家」

     

    テーマ : 中国古典・名言
    ジャンル : 学問・文化・芸術

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    中国通史で辿る名言・故事探訪(不倶戴天の呉と越)

     「姑蘇の戦い」

                       春秋時代

     紀元前482年 越王勾践は雌伏十二年にしてようやく、呉王夫差の

    不在に付け込み、呉都を攻める決心をした。

     この呉王の長期不在は、夫差が野望に燃えて覇者たらんとして、黄地

    に諸侯会盟を主催しようとして生じた間隙であった。

     越王勾践にとって、敗北による忍び難き忍従を重ねてきたので、遂に

    「会稽の恥」を雪ぐための復讐の好機が到来したのである。

     呉王夫差は、呉都とから遠く七百キロも離れた斉の地に主力軍を率い

    て諸侯会盟の為 壮途についていた。

     従って国都には、太子・友と一万弱の老若兵しか残っていなかった。

     魯・哀公十三年(前482年)六月丙子(13日)、越軍四万五千は二手に

    分かれて出陣した。

     范蠡(はんれい)を将とする軍は、淮河を水軍を以って制した。

     之は夫差の帰国を阻止するための戦略であった。

     一方 勾践は主力軍を率いて呉に攻め入った。

     呉の王孫弥庸は、泓水の岸から敵軍を視察したところ、昔日の呉越の

    戦いで捕虜となった父の軍旗を見つけ出したので、太子友の止める

    のも聞かず、五千の軍団を率いて出陣し、これに王子地が援助した。

     乙酉(22日)、両軍は戦端を開いたが王孫弥庸は、越の疇(ちゅう)

    無餘を、王子地は謳陽をそれぞれ捕獲したが、越王の来援を境にして

    王子地は防禦の陣を張った。

     翌日 丙戌(23日) 会戦となったが、越軍は呉軍を大破して太子友・

    王孫弥庸・寿於姚を捕獲し、翌日の丁亥(24日) 呉国に侵入し、姑蘇城

    は陥落した。

     後に太子友は殺され、夫差の誇った華やかな呉都はことごとく灰塵に

    帰した。

     この呉都陥落の報は、直ちに遠征先の夫差に伝達された。

            
                   「春秋左氏伝 哀公十三年」

     

    テーマ : 戦記
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    中国通史で辿る名言・故事探訪(韓非子)

     「先黍後桃(せんしょこうとう)

                      春秋時代に比定

     貴賤の分別を知らないことの喩え。

     黍(きび)飯を先に食べて、桃は後にするの意。

     果物の桃の表面は柔かいうす毛に包まれており、そのままでは食し

    難く、そのため古代に於いては五穀の一つである黍で以って揉み落して

    から食した。

     孔子は魯の哀公に宮中に召されて、君侯の傍らに侍していた。

     そのうち、その席で哀公は孔子に桃と黍を賜った。

     そして哀公が孔子に食べるように促すと、

     孔子は、先黍後桃(せんしょこうとう)の順にして食した。

     つまり、最初は黍飯を食べ、それから桃を口にしたのである。

     同席していた左右の者は、孔子のそのあり様を見て皆 口を覆って

    笑った。

     哀公は言う、
     
     「黍はこれ飯すべきものに非ず、以って桃を雪ぐものなり」と。

     哀公の説明に対して、孔子は堂々たる態度で対えて言った。

     「私もそれは存じております。しかし、かの黍は五穀の長でござい

    まして、先王を祀るときには、最上の供え物と致します。

     木の実・草の実には六種類ございますが、桃は下等の物で、先王を

    祀る時には廟に入れることは出来ません。

     私は、君子は卑しい物で貴い物を拭うと聞いておりますが、貴い物で

    卑しい物を拭うとは聞いておりません。

     貴賤の順序を取り違えると、正しかるべき義を妨げると存じます。

     だから私は敢えて、桃を最上の供え物である黍よりも重んじようとは

    しないのです」、と釈明した。

     この孔子の釈明は、一見すると尤もな理屈ではある。

     韓非子(遥か後世の人)は言う、

     「黍飯を先に食べてから桃を食べた孔子の姿は、泣きたくなるほど

    滑稽である。

     なるほど義には適ったものではあるが、物事の本質の理を大きく損ね

    ていると言える。

     桃の皮は薄皮で覆われており、そのままでは食べれた代物ではない

    のである。

     しかし、「先黍後桃」は反面教師として、心に留めておくべき君主の心得

    である。

               「韓非子 外儲説」


     

    テーマ : 中国古典・名言
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    中国通史で辿る名言・故事探訪(孔子家語)

     「君は舟、庶人は水なり」


                      春秋時代

     魯の哀公(26代。在位期間 前494~468)が孔子から、

    「人の五儀」について進講を受けた時、問答の最後で、

     「自分は宮中深く 婦人の手で育てられてきたので、未だ曽て

    とか、或はとかということを知らずにきた。

     だから未だ曽て危うきということを知らないので、恐らく教えられた

    五儀を実行する術(すべ)が分らないのだ」と言った。

     それに対して孔子は、言を左右にして何も言わなかったが、哀公の強い

    要望に接して口を開いた。

     哀公が言うところの「哀」から「労」については、具体的な喩え話で教え

    示した。

     更に語り続けて、
     
     「君が思いに耽って城外に出て、周章遠視し、亡国の虚を見れば、必ず

    そうなって運命という者に気付くはずです。

      ※ 周章遠視とは、あちこちと廻り且つ遠くを見つめること。

        亡国の虚とは、滅亡してしまった国々の廃墟。

     君 之をもて懼(おそ)れを思わば、、則ち懼れ知るべし。

     夫れ君は舟なり、庶人は水なり。


     水は舟を載(の。浮べる)す所以なるも、また舟を覆す所以なり。

     君 之を以って「危」を思わば、則ち危を知るべし。

     君 既にこの五者を明らかにして、また少しく意を五儀の事に留むれば、

    則ち政治に於いて何ぞ失うこと有らん」、と。

                     「孔子家語 五儀解」

     

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    中国通史で辿る名言・故事探訪(斉の内紛 収まらず)

     「晏孺子から悼公へ」


                      春秋時代

     前490年、斉では久しく君臨してきた26代景公(呂杵臼)が没した。

     また春秋の名宰相として斉で重きをなした晏嬰は、既に亡くなっており、

    ここに至って陳からの亡命貴族の田氏(亡命前は陳氏という)一族と

     建国以来の名族である高氏、国氏、晏氏、鮑(ほう)氏などの有力貴族

    の政権争いが起った。

     前489年 先ず景公の遺命を奉って景公の妾腹の子の荼(と)を

    高張と国夏が擁立して即位させた。これが27代晏孺子である。

     同年冬十月 公子嘉・公子駒・公子黔(けん)は衛に逃れ、公子陽生・

    公子鉏(しょ)は魯に逃れた。

     田乞(陳乞)は個人的には高氏や国氏に擦り寄り、味方する振りを

    しては、敵対する大夫連中を始末することを仄めかした。

     その一方では朝廷に於いて、大夫の席では国氏・高氏の二人の

    横暴を吹き込みその排斥を蠢動した。

     するとこれに賛同する鮑牧は、陳乞と共に他の大夫らを引き入れて、

    遂に魯・哀公六年(前489年)夏六月戊辰(五日)、武装兵を率いて

    公宮に攻め込んだ。

     かくして陳乞らは、斉の両翼と云われた高張と国夏を追放し、晏孺子

    の年長の兄弟である公子陽生を魯から呼び戻して即位させた。

     これが二十八代悼公(呂陽生)である。

     なお国夏は莒(きょ)に逃れ、高張は魯に逃れた。

     晏孺子とその生母は追放されたが、悼公の意を受けた毛朱が晏孺子

    を駘(たい)に遷し、未だ到達しない内に野外の帳幕の内で殺した。  

               「春秋左氏伝 魯・哀公六年・七年」



     

      

    テーマ : 中国古典・名言
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     河野長生   tyouseimaru

    Author: 河野長生 tyouseimaru
    出身地は四国八十八か所参りの発心の阿波、大阪を終の住処とする。
    歴史好きで、城郭・神社仏閣・歴史遺跡巡りが趣味となる。

    令和元年5月25日、マイブログがアマゾン kindle版として
    その題名も「心に響く中国歴史名」として出版されました。

    自薦
    自著「中国通史で辿る名言・故事探訪」は、上・中・下の3巻あり、 余りにも大部な書となってしまった。 そこで内容を圧縮して「ブログ」として、活路を見出した。 それで、かなり減量したものとなった。 今後はさらに読みやすいブログを目指して、工夫を加えるなどして、 補記訂正してゆきたいと思っています。       
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