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    中国通史で辿る名言・故事探訪(孟子)

     舜 何人ぞや、予(われ) 何人ぞや


                        戦国時代

     舜はどんな人間なのか。私はどんな人間か。

     即ち 聖人と言われた舜も私と同じ人間ではないか。

     舜にできたことが、どうしてこの私にできないことがあろうか。

     孔子の高弟であった顔淵の至高の精神のその淵源発露である。

                        「孟子・縢文公上」

      また「孟子・離婁下」で、

      後世 亜聖と言われた孟子の獅子吼が伝わる。

      曰く、

      「何を以って人に異ならんや。

      堯、舜も人と同じきのみ」
    と。

      聖天子の堯や舜といえども同じ人間だ。

      彼も人であり、吾も人である。

      誰しも修養によっては、立派な人間になれるのだ」と。


     〓 拾遺弥縫 〓

       「顔淵 呉都を眺望して死す」

       伝書(韓詩外伝)に言う。

          ※ 前漢・韓嬰の詩経の解説書。

       孔子が顔淵と魯の太山(東嶽の泰山)に登って、孔子がそこから

      幾千里の彼方にある呉の都を望見して、顔淵にも同じことをさせたが、

      顔淵は精魂を使い果たしてしまい、死んでしまった、という伝説がある。

       孔子が泰山の上で、東南方の呉都の西の郭門外に白馬が繋ぎ止めて

      あるのを望見して、顔淵の袖を引っ張り、

       「お前は呉の昌門が見えるか」と、指差した。

       顔淵が、「見えます」と言うと、

       孔子は、

       「門外に何があるかね」と。

       顔淵は、

       「白い練り絹を掛けたかの形が見えます」と。

       孔子は目をこすって見るのを止めると、そのまま一緒に山を下りた。

       だが山を下りた頃、顔淵の毛髪は白くなり、歯は抜け落ちて、とうとう

      病気になって死んでしまった。

       顔淵は精神力が孔子に及ばず、努力の限りを尽くして精神を出し

      切ってしまったので、早死にをしたのであろう、と言われた。

       世の俗人はこの話を聞くと、さもありなんと思っているようであるが、

      有り体に論ずれば、まったくの虚妄である。

       論語を調べても、六経の解釈を調べてみても、そのような事実はない。

      亜聖と言われる顔淵が、聖人と同じに千里の彼方を遠望できるなら、

     孔子の他の弟子たちは何を遠慮してそのことを言わないのか。

      思うに、人の視力は十里以上は不可能であろう。

         ※ 後漢時代の
          
            一里は、414.7m
     
      それ以上は見えないし、はっきり見えないのは遠すぎるからである。

      まして況や、太山から呉都の白馬の色まで見分けたりすることは不可能

     であり、顔淵はおろか孔子にもできることではない。

      どうしてそれを証明するかと言えば、人の耳目の働きは同等である。

      目が百里の遠方を見ることが出来ないなら、耳もやはり聞くことは

     できない。

      昌門と太山の距離は、帳や簾の内や、百里の遠方どころではない

     のである。




     

    テーマ : 四書五経
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    中国通史で辿る名言・故事探訪(衛の政変)

     「君子 死すとも、冠は免がず」


                        春秋時代末期

      子路(季路とも。姓は仲、名は由。孔子の高弟)は、衛の大夫の

     孔悝(こうかい)に仕える陪臣であったが、衛で内乱が起こった時は

     任地にいて、乱の知らせで急ぎ衛都に駆け付けた。

      子路は衛都に着くと直ちに城門を目指したが、途中で内乱発生に

     際して衛国を棄てて逃げて行く同門(孔門)の子羔(しこう。高柴とも)

     に出会った。

      だがその頃(前479年)には既に乱は収束し、蒯聵(かいかい)が

     君位に就いていた。これが31代荘公である。

      子羔は、

      「城門は既に閉ざされているぞ」と、忠告したが子路は、

      「吾はとにかく行ってみよう」と答えた。

      子羔はそれでも、

      「もう間に合わないであろう。難儀にかかわるべきではない」と、

     忠告した。

      子路は、

      「禄を受ける身だ(孔悝から)。難儀は覚悟の上だ」、と答えた。

      子羔はそれ以上は言わず、去っていった。

      子路は出公への義を立て且つ主人の孔悝を救出しようと、乱を

     なした蒯聵に対して楯突いた。

      子路が城門に達したころ、公孫敢が城門を守っていたが、

      「入ることはならぬ」と言って、城門を開けようとしなかった。

      だが押し問答をしている内に、使者が城門から出てきたので、子路は

     その隙に乗じて場内に駆け込んだ。

      そして時を置くことなく、太子蒯聵の元に半ば拘束されている孔悝の

     いる所に近づき、

      「太子、どうして孔悝を利用する必要がありましょう。たとえ孔悝を

     殺しても、必ずその跡を継ぐ者がありますぞ」と叫び、

      さらに、「太子は勇なし。若し臺(高楼)の半ばを燔(焼)かば、必ず

     孔淑を舎(赦)さん」と脅しをかけた。

      慌てた孔悝は、石乞と盂黶(うえん)に命じて子路に立ち向かわせた。

      子路は戦い際 相手の戈(ほこ)で冠の紐を断ち切られたが、

      「君子は死すとも、冠を免(ぬ)がず」と言って、

     纓(えい。冠の紐)を締め直して奮闘したが敢え無く討ち死にした。

      後に、孔子は衛の内乱を聞いて曰く、

      「柴(さい。子羔)や、其れ来たらん。由(仲由。子路)や死せん」と。

      孔悝は結局、太子蒯聵を擁立して即位させた。これが荘公である

      後に、蒯聵は子路の屍を塩漬けにして晒し者にした。



     

    テーマ : 四書五経
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    中国通史で辿る名言・故事探訪(韓非子)

     「涸沢の蛇」

                        戦国末期

     「小蛇の知恵」ともいう。

     相手を上手く利用して、世間の常識や物の見方の裏を掻き、共に利益

    を得ることの譬え。

     水の涸れた(干上がった)沢の蛇の意。

     斉を牛耳っていた田成子が、いつしか君王権力の守護を目指して側近を

    重用するようになった平公と険悪な関係になってしまった。

     そのうち身の危険を感じるようになった田成子は、一時 隣国の燕に退避

    しようと旅立った。

     その途中、従者の鴟夷子皮(しいしひ)は通関手形を肩にして主の後を

    追い、やがて望という邑に差し掛かった頃、鴟夷子皮が主の身を気遣って

    言った。 

     「子は、『涸沢の蛇』の話を聞いたことはありませんか」と話を切り出した。

     涸沢の蛇、将に徒(移)らんとす。すなわち水を求めての一斉移動である。

     「小蛇ありて、大蛇に謂いて曰く。

     『人の通る道を横断する時、大きな蛇のあなた達の後から小さな蛇の

    私が付いて行けば、人は単なる蛇の移動とみて、必ず私たちを殺すに

    決まっています。

     そこで、あなた達 大きな蛇がお互いに尻尾を咥えあって、私があなた

    の背に負われて行くのが無難な方法だといえます。

     そうすれば、人は私を神君(沼の神)だと思うでしょう。

     さて如何に』と。

     そこで大の蛇は、申し合わせた通りに互いに尻尾を咥え合って、小の

    蛇が大の蛇の背に乗って大道を超えて行きました。

     すると人は皆 之を避けて言い合いました。

     神君のお通りだ」、と。

     ところでご主人様は見かけも立派で御座いますが、この私は極めて

    貧相です。ですからこのままの外見では、ご主人様もせいぜい千乗の君

    (大国の君侯)のお忍びくらいにしか見られません。

     もし立場を逆転して、あなたが私の従者だという触れ込みにすれば、

    ことは私が万乗の卿大夫(天使の治める朝廷の執政か大臣級)に思われる

    でしょう。

     どうやらその方が、事は上手くいくと思われますが… … 」と

    持ちかけた。

     そこで田成子が通関手形を肩にして、鴟夷子皮が後についてまわり、

    旅宿に着くと、宿の主人は彼らを下にも置かぬおもてなしをした。 


             韓非子 「説林」

    テーマ : 中国古典・名言
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    中国通史で辿る名言・故事探訪(斉の田氏)

      「田常、反す」


                        春秋時代

     斉の簡公四年(紀元前481年)春、田氏一族は族長の田常(田成子。

    田乞の嫡子)を中心にして謀議し、先手を取って簡公(29代)の任じた

    執政の監止を殺し、主たる簡公も捕らえた。

     そして六月五日、田常は簡公を弑殺し、その弟の驁(ごう)を立てた。

     これが三十代・平公(在位期間 前480~456)である。

     この時点で、もはや斉国は田氏のものであったが、太公望を祖に持つ姜氏

    の斉は、平公の後 三十一代宣公(前455~405)が後を継ぎ、次の

    三十二代康公(前404年~379)で廃絶することとなる。 

       田常は後漢以後の通称であり、田恒が本来の氏名である。

        その理由は、前漢の司馬遷が、前漢の文帝(劉恒)の諱の「恒」を

       避諱して、同じ意の「常」に当てたもの。

        またこの田常は陳成子とも言う。その先祖が斉に亡命した後に、田氏

       を名乗る。  

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    テーマ : 歴史的な出来事
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    中国通史で辿る名言・故事探訪(論語)

     「人物の資質や如何に」

                      春秋時代

     人の気質は皆 一様ではない。だが事物の道理を知るに至れば同一で

    あるといえる。

     だから君子たる者は、道理を学ぶことを最も尊ぶべきなのである。

     子曰く、

     生まれながらにして之を知る者は、なり。

       天性の能力・資質というものは、人それぞれに差異があるもの。

       道理を知るということに例を取れば、学ぶこととをしないで、生まれ

      つき自然に道理を知っている者は最上の人といえる。

       これを「生知」という。

     学びてこれを知る者は、なり。

       人から学んだ後に、道理を知る者は次の人物といえる。

       これを「学知」という。

     困(くる)しみて之を学ぶ者は、又 其の次なり。

       そして始めは学ぶことを知らず、道理にも通じないことを苦しんで

      発奮し、之を学ぶ者は又 其の次の人物だといえる。

     困しみて学ばず、民 之をとなす。

      だが苦しんで学ばず、何も覚るところもなく平然としている者は、最下等

     の者である。

                    「論語 季氏篇」

     

    テーマ : 四書五経
    ジャンル : 学問・文化・芸術

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    中国通史で辿る名言・故事探訪(論語より)

     「法語の言と巽与の言」


                    春秋時代

     法語の言とは、厳粛な辞で道理に基づいた正しい言葉。

     巽与(そんよ)の言とは、婉曲な辞で恭しく人に逆らわない言葉。

     
     子曰く、

     法語の言は、能く従うなからんや、

     之を改むるを貴しと為す。

     (=道理に基づいた正しい言葉で忠告されると、人は誰でもよく聞き入れる

      が、なおよく自省して己の過ちを改めることが大切なのである。)

     巽与の言は、能く説(よろこ)ぶなからんや、

     之を繹(たず)ぬるを貴しと為す。

      (=優しい言葉であれば誰でも素直に聞き入れるが、それだけに終わらず

       よくその意のある所を察することが大切なのである。)

     説んで繹ねず、従って改めずんば、吾 之を如何ともすることなきのみ。

      (=悦んだだけでその真意を尋ね求めず、従っただけで改めないならば、

       私はこの人を教導する術を知らない。)

                        「論語 子罕篇」


     


     
     

    テーマ : 中国古典・名言
    ジャンル : 学問・文化・芸術

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     河野長生   tyouseimaru

    Author: 河野長生 tyouseimaru
    出身地は四国八十八か所参りの発心の阿波、大阪を終の住処とする。
    歴史好きで、城郭・神社仏閣・歴史遺跡巡りが趣味となる。

    令和元年5月25日、マイブログがアマゾン kindle版として
    その題名も「心に響く中国歴史名」として出版されました。

    自薦
    自著「中国通史で辿る名言・故事探訪」は、上・中・下の3巻あり、 余りにも大部な書となってしまった。 そこで内容を圧縮して「ブログ」として、活路を見出した。 それで、かなり減量したものとなった。 今後はさらに読みやすいブログを目指して、工夫を加えるなどして、 補記訂正してゆきたいと思っています。       
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