中国通史で辿る名言・故事探訪(斉の後継者争い)
「臣 謹んで誅を行う」
紀元前686年 斉(姜斉)の大夫擁廩(=林)は、15代の公孫無知
を弑してから大夫連中に告げて曰く、
「無知は、襄公(14代の姜諸兒)」を弑して自立す。
臣 謹んで誅を行う。
ただ大夫ら、さらに公子の当に立つべき者を立てよ。
ただ命をこれ聴かん」と。
自らは、懼れ多くも野望の無いことを闡明したのである。
『小白と糾の後継者争い』
大夫擁廩(林)の表明を受けて、斉の重臣は誰を新たに君に
立てるべきかで紛糾した。
小白の母は衛の出であって、先代釐公の寵愛を受けていた。
※ 釐公は「史記」の記名、春秋左氏伝では「僖公」と記す。
そして小白は、卿大夫の高傒(こうけい)とは少年の頃から親しかった
ので、結局 もう一人の卿大夫の国氏もこれに同調し、密かに小白を
莒(きょ)から呼び戻そうとしていた。
一方では公子糾の擁護者たる管仲は、魯にいて斉の動向を密使の
報告で察知していたので、直ちに糾を伴い且つの魯の援軍を帯同して
魯を出国した。
また鮑叔牙も同じく斉の動向を察知して、擁護する小白を斉に連れ
戻そうとしたが、丁度その時 斉の留守を守っていた正卿の高傒から
密かに連絡があり莒を後にした。
管仲は糾と小白の後継争いは避けられないと考えていたので、自ら
は一軍を率いて小白の一行を待ち伏せしていた。
やがて小白の一行が目に入るや、管仲は小白めがけて矢を射込
んだ。
矢は小白の帯鈎(バンドの金具)に当たったが、小白は鮑叔牙の
指図通りに死んだふりをして見事に管仲を欺いた。
この管仲の誤まった判断が、後になり糾の命取りとなる。
死を免れた小白は、鮑叔牙に急かされて、遂に斉の都に先着する
ことが出来た。
秋七月 国君となった小白 即ち桓公は、襄公の葬儀を執行した。
『乾時(かんじ)の戦い』
八月になると、魯軍は斉に攻め込み、斉の乾時で戦闘を交えた。
だが魯軍は惨敗を喫し、荘公は自らの兵車を乗り棄て、馬車を
乗り継ぎ、這う這うの体で国に逃げ帰った。
荘公の御者と車右は、兵車に王の旗を立てて、斉軍を脇道に誘い
込んで荘公を逃したのである。
「史記 斉太公世家」
紀元前686年 斉(姜斉)の大夫擁廩(=林)は、15代の公孫無知
を弑してから大夫連中に告げて曰く、
「無知は、襄公(14代の姜諸兒)」を弑して自立す。
臣 謹んで誅を行う。
ただ大夫ら、さらに公子の当に立つべき者を立てよ。
ただ命をこれ聴かん」と。
自らは、懼れ多くも野望の無いことを闡明したのである。
『小白と糾の後継者争い』
大夫擁廩(林)の表明を受けて、斉の重臣は誰を新たに君に
立てるべきかで紛糾した。
小白の母は衛の出であって、先代釐公の寵愛を受けていた。
※ 釐公は「史記」の記名、春秋左氏伝では「僖公」と記す。
そして小白は、卿大夫の高傒(こうけい)とは少年の頃から親しかった
ので、結局 もう一人の卿大夫の国氏もこれに同調し、密かに小白を
莒(きょ)から呼び戻そうとしていた。
一方では公子糾の擁護者たる管仲は、魯にいて斉の動向を密使の
報告で察知していたので、直ちに糾を伴い且つの魯の援軍を帯同して
魯を出国した。
また鮑叔牙も同じく斉の動向を察知して、擁護する小白を斉に連れ
戻そうとしたが、丁度その時 斉の留守を守っていた正卿の高傒から
密かに連絡があり莒を後にした。
管仲は糾と小白の後継争いは避けられないと考えていたので、自ら
は一軍を率いて小白の一行を待ち伏せしていた。
やがて小白の一行が目に入るや、管仲は小白めがけて矢を射込
んだ。
矢は小白の帯鈎(バンドの金具)に当たったが、小白は鮑叔牙の
指図通りに死んだふりをして見事に管仲を欺いた。
この管仲の誤まった判断が、後になり糾の命取りとなる。
死を免れた小白は、鮑叔牙に急かされて、遂に斉の都に先着する
ことが出来た。
秋七月 国君となった小白 即ち桓公は、襄公の葬儀を執行した。
『乾時(かんじ)の戦い』
八月になると、魯軍は斉に攻め込み、斉の乾時で戦闘を交えた。
だが魯軍は惨敗を喫し、荘公は自らの兵車を乗り棄て、馬車を
乗り継ぎ、這う這うの体で国に逃げ帰った。
荘公の御者と車右は、兵車に王の旗を立てて、斉軍を脇道に誘い
込んで荘公を逃したのである。
「史記 斉太公世家」