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    中国通史で辿る名言・故事探訪(城濮の戦い その2)

      「城濮の戦い その2」

                        春秋時代(東周)

     「謀略戦」

       晋にとり、ここは宋を救援して楚と戦うより外に道は無かった。

       だが晋は、この戦いに協力してくれる同盟軍が欲しかった。

       戦略上、楚に近接する斉と楚の背後にある秦の協力が是非とも

      必要であった。

       戦略会議の席上、先軫が進言した。

       「宋の救援を一応 形式的に断っておけば、宋は直ちに斉と秦に

      和平工作を働きかけるでしょう。

       然る後に、我が軍は直ちに楚との関係の深い曹と衛を攻略し、

      接収した領地を宋に与える策を採ります。

       楚にしてみれば、曹と衛とは親密な関係にある国であり、斉・秦の

      調停に応じるはずがありません。

       斉・秦は調停を拒否されれば、国の面子を無視されたということで、

      我らと与に宋の救援に乗り出してくるに違いありません」と。

      「衛・曹の攻略」

       年が明けて春になった。晋の文公は曹討伐の計画を立て、先ずは

      衛にその領土内の通行を申し入れた。

       だが衛に拒絶されたので、迂回路を取って黄河を渡り 曹に攻め

      込んだ。

       一方では通行を拒絶された衛の領土にも侵攻して、文公にとり昔日

      に受けた曰くのある「五鹿の地」を占領した。

       ※  文公が未だ公子重耳として諸国を流浪中、衛の五鹿の地で

         食うに窮した時、その地の黎民が食を請う重耳らに土塊を投げ

         与えるという非礼を受けたことがあった。

      「斂盂(れんう)で斉と会盟」

       2月に中軍の将(総司令官)の郤縠(穀)が没した。後任には下軍の

      将・先軫が抜擢され、胥臣がその後任となった。

       文公は衛の地で斉の昭侯と会盟した。

       この会盟に衛の成公は参加を申し出たが、文公は拒絶した。

       そこで衛の成公は楚と再び手を結ぼうとしたが、衛の国人層は反対

      して、成公を衛都から放逐して襄牛に隠棲させ、晋に釈明するという

      挙に出てきた。

       この時 楚の陣営に与していた魯は、衛都防衛の為 公子買を

      派遣して来た。さらに楚も衛救援軍を派遣して来たが、遂に晋を破る

      ことは出来なかった。

       晋の矛先は、いよいよ曹都・陶丘に向けられた。晋軍はたちまち

      曹都を包囲したが、城門で激戦が展開され晋軍にも多くの犠牲者が

      出た。

       曹ではそれら晋兵の屍体を集めて、城壁の上に並べて晒し者に

      した。

       これには文公も憂慮したが、下級兵士らの歌う文句に教えられて、

      「曹の墓を移す」という攪乱戦法で以って曹を動揺させた。

       曹は其の回避策として、晒し者にしていた晋兵の屍体を棺に納めて、

      城門を開いて晋側に返還してきた。

       3月丙午(13日)、その虚に乗じて晋軍は総攻撃に出て、遂に城門

      を攻略し、曹伯を捕えた。

      「文公、恩讐を果たす」

       文公はこの衛・曹攻略戦において、昔日の流浪中に受けた恩と仇

      を同時に果たした。

       先ず曹の攻略では曹伯を捕えて、昔日受けた屈辱を晴らし、同時に

      その際に受けた曹の大夫・釐負覊(きふき)に受けた恩義に報いた。

       衛では、食うにこと欠いていたにも拘らず、衛公(成公)からは冷遇

      され、あまつさえ黎民からは食い物の代わりに土塊を投げ寄こされた

      が、国そのものを奪うことによって屈辱を晴らした。

       文公は曹都に入ると先ず曹の治世の出鱈目ぶりと、かって釐負覊

      の進言を無視して文公を冷遇したことの二点を挙げて、曹伯を問責

      した。

       併せて指揮する進駐軍に対しては、大夫釐負覊とその一族の保護

      を厳命した。

       ところがこの措置に不満を持つ者が、釐負覊の屋敷を焼き打ちに

      した。

       何と、文公の股肱の臣でもある魏武子と顚頡(てんけつ)である。

       二人の言い分は、

       「我らの労をばこれ図らず、報いるにおいて何かあらん」、という

      ものであった。即ち、恩返しが何だ位の意。

       文公は軍律を質すべく二人を処刑しようとしたが、股肱の臣を二人

      同時に失うことを憂いて、魏武子に対しては焼き打ちの際に受けた

      傷が恢復するものならば助命しようと考えて使者を遣り、その様子を

      窺わせた。

       そして使者の報告を受けて処刑を取り止め、顚頡だけを処刑して

      軍中に其の罪を触れさせた。

       そして文公の車右であった魏武子に代えて舟之僑が任ぜられた。

                         「春秋左氏伝」・「史記」

                       
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    テーマ : 戦記
    ジャンル : 学問・文化・芸術

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     河野長生   tyouseimaru

    Author: 河野長生 tyouseimaru
    出身地は四国八十八か所参りの発心の阿波、大阪を終の棲家とする。
    歴史好きで、城郭・神社仏閣・歴史遺跡巡りが趣味となる。
    歴史小説や時代小説を好み、往年の著名な時代小説の類は概ね完読と、自負している。

    自薦
    自著「中国通史で辿る名言・故事探訪」の 上・中・下の3巻を、 近い内に「電子書籍」での出版を予定しています。 今年一年間は、さらに工夫を加えるなどして、補記訂正などの校正を第一義としています。       
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