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    中国通史で辿る名言・故事探訪(城濮の戦い その3)

     「城濮の戦い その3」

                        春秋時代

      「開戦」 

       晋が曹・衛を攻略した後、楚と宋の紛争が再燃した。

       楚軍が再び宋都・商邱(そうきゅう)を包囲したので、宋は晋に救援を

      求めて来た。

       文公はその対策に窮した。

       救援軍を直接送れば、必然的に楚と相戦うことになる。

       楚の成王には曽て諸国流浪中に厚遇を受けた恩義があり、交戦は

      気が進まなかった。

       また一方では宋にも恩義があり、これも見殺しには出来なかった。

       決断しかねている文公に先軫が献策した。

       「曹伯を捕えて、衛・曹の地を分かち、以って宋に与えん。

       楚、衛・曹を急にして、その勢いよろしく宋を釈(=棄)つべし」と。

       (=楚の鋭鋒が曹・衛に急行すれば、宋の包囲は自ずと解かれる

        はずだ。)

       文公は其の策を採った。そして晋は予定通り衛と曹の領地を宋に

      与えることにして、且つ宋からは秦と斉に働きかけさせて、その両国の

      仲介による対楚和平工作を図らせた。

       だが曹と衛の領地を宋が領有することになったことを知った楚の

      成王は、激怒して秦と斉の和平仲介を拒絶してしまった。

       事ここにおいて、晋の目論み通り晋・秦・斉・宋の同盟が成った。

       状況を知った成王は、果たして宋都の包囲を解き、自ら指揮する

      親征軍を引き揚げたが、宋の奥深くまで進み転戦中の師将で令尹の

      子玉(闘得臣)には、晋との決戦を避けつつ撤収するよう命じた。

       だが子玉は、王への特使を通じて言う、

       「かつて我が国が晋侯(文公の重耳)を遇すること至厚なるに、この

      度 我が国の立場を承知しながら曹・衛を攻撃するとは、我が君を

      愚弄するにも程がありますぞ」と愚痴った。

       これに対して成王は、使者を通じて説得した。

       「晋侯は19年の久しきに及ぶ亡命の後、帰国し遂に復帰を成し

      遂げた人物であり、治国の才にも優れたものがある。

       天の開く所なり(天命である)。当たるべからず」と。

       だが子玉は、成王に再び伯棼(はくふん)を使者に立て、戦闘継続

      の許しを請うた。

       「敢えて必ずしも功有らんとするに非ざるなり。願わくば以って

      讒慝(ざんとく。邪な人)の口を間執(封ずる)せん」との口上で

      以って、出陣に先立つ蔿賈(いか)との確執に拘っていたのである。

       命令無視に立腹した成王は、子玉に多くの兵を与えなかったので、

      子玉の指揮下には、当時の楚の二つの軍団編成の内 右広と

      大子直轄の東宮軍及び子玉の血縁集団軍である若敖氏の六卒

      (六〇〇人)が従った。

      「子玉の戦略」

      戦力的に窮した子玉は、晋軍に大夫・苑春を軍使として派遣し、通告

     せしめた。

      「請う衛侯を復して曹を封ぜよ。

       臣もまた 宋の囲みを釈(と)かん」と。

      (=まず衛侯の身柄を衛に返し、曹領を元に戻されよ。そうすれば、

       我も同様に宋の包囲を解き撤退しよう。)

      この申し出に対して、弧偃(子犯)は反対した。

      「子玉は礼無し。君は一を取るに、臣にして二を取る。許す勿れ」と。

       《戦略を秘めた偽装信義》

       一方 先軫は、

      「人を定める(人の地位を安泰に保つこと)、これを礼という。

      楚は一言にして三国(衛・曹と宋)を定め、

      子(弧偃)は一言にして之を亡ぼすは、我(我が国) 則ち礼無し。

       楚に許さざる(楚の無礼な要求を斥ぞける)は、是れ宋を棄つる

      なり。

       如かず、密かに曹・衛に許して以って之を誘い、苑春を捕えて

      以って楚を怒らせ、既に戦いて然る後 之を図らんには」と。

       結局 先軫の意見が採用されることになり、楚の使者・苑春はその

      まま拘束しておき、楚(子玉)には報せることなく隠密裏に曹と衛を

      旧に復した。

       建前上は楚の要求を呑むことになったわけであるが、、果たして

      晋の思惑通りに曹と衛は、その見返りに楚との盟約関係を断って

      しまった。

       これを知った子玉は、烈火のごとく怒って晋軍に迫った。

       文公はそれに立ち向かわず、軍を大きく三舎も後退させた。

       当時の軍の行軍距離は、

       一日に一舎、即ち三十里行軍して一泊する慣わしであったが、

      決戦を避けて敵陣から「三舎を避けて」布陣した。

         ※ 当時の一里は、405メートルである。

       其れに対して軍の目付が異議を称えた。

       「君以って、臣を避くるは辱なり。

       かつ楚の師(軍旅)老いたり(疲れている)。何の故に退く」と。

       その意見に対して、弧偃が弁護して言った。

       「戦いは、その目的が道理に適っていることが重要である。

       我が君が楚に亡命した時の恩義がなければ、今日の晋は無く、

      今 楚に対して三舎を避けたのは、それへの恩返しである。

       約束を反故にすれば道義は失われ、我が軍の不利となる。

       我が軍が退いた後、もし楚が攻撃を仕掛けてくれば、其れは

      臣下の率いる軍として我が君主の率いる軍に対して非礼となり、

      我が軍は道義的にも優位に立つことが出来る」と。

       かくして晋軍が三舎を避けたので、楚軍の内部では進撃中止の

      意見が強まったが、子玉は耳を傾けようとはしなかった。

                   「春秋春秋左氏伝」、「史記」



       


       
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    テーマ : 中国古典・名言
    ジャンル : 学問・文化・芸術

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    tyouseimaru 河野長生

    Author:tyouseimaru 河野長生
    出身地は四国八十八か所参りの発心の阿波、大阪を終の棲家とする。
    歴史好きで、城郭・神社仏閣・歴史遺跡巡りが趣味となる。
    歴史小説や時代小説を好み、往年の著名な時代小説の類は概ね完読と、自負している。

    自薦
    自著「中国通史で辿る名言・故事探訪」の 上・中・下の3巻を、 近い内に「電子書籍」での出版を予定しています。 今年一年間は、さらに工夫を加えるなどして、補記訂正などの校正を第一義としています。       
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