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    中国通史で辿る名言・故事探訪(春秋の五大会戦 そのⅢ)

      邲の戦い そのⅡ


                        春秋時代

      「開戦」

      晋軍の陣営にあっては、和睦の使者として派遣した魏錡らが一晩

     経っても帰陣して来なかったので、もしかして楚軍を刺激して怒らせた

     のではないかと心配して、防護用の兵車を差し向けた。

      ところが魏錡を追っていた楚の将軍・潘党は、晋の兵車の挙げる

     砂塵を見て本陣に急使を派遣し、敵の襲撃有りと通報した。

      「むしろ人に迫るとも、

     人をして迫らしむることなからん」

      (=こちらから攻めても、攻めさせてなならない。)

      楚軍においては令尹の孫叔敖が、荘王が深入りして晋軍に包囲

     されては一大事とばかりに出撃命令を出した。

      むしろ人に迫るとも、人をして迫らしむることなからんと、攻勢を執る

     べく兵を繰り出した楚軍は晋軍に襲い掛かった。

      晋の総帥・荀林父は為す術もなく、慌てて撤退の鉦(かね)と叩き、

     軍中に告げさせた。

      「先に河(黄河を北に)を渡った者には、恩賞を取らせる」と。

      舟中の指、掬すべし

      (=舟の中に切り落とされた人の指が、手で掬(すく)い取れるほども

       あった。)

      撤収と恩賞のお触れに、兵士たちは命がけとなった。

      人より早く河を渡ろうとして、中軍、下軍 舟を争い、

      「舟中の指 掬すべし」、という惨状を呈し、最早 収拾がつかなく

     なってしまった。

      即ち 先に乗船した兵たちが、定員過剰となり舟の転覆を免れる

     ために、後から乗り込んで来ようとする兵の船べりを掴んだ手を、剣で

     斬り落としてしまうという舟中の生き残りの争いが、あちこちの船で

     一斉に起ったのである。

      かくして舟の中には、切断された手の指が両手で掬い取ることが

     出来る程もあったという。

      晋の中軍と下軍は、当に総崩れとなり右に移動した。

      激戦中に、楚の大夫・熊負羈(ゆうふき)は、晋の大夫・荀首の子

     である知罃(ちおう。知武子とも)を生け捕りにした。

      荀首はその一族郎党を率いて、知罃奪還に立ち向かったが、

     ようやく楚の連尹(武器類の管理官)・襄老(夏姫の夫)を射止めて

     その遺骸を兵車に乗せ、さらに楚の公子・穀臣(荘王の子)を射て、

     これも生け捕りにして晋に連れ帰った。

      屈辱の敗戦を蒙った晋ではあったが、和平派であった知将の随会

     (士会)の指揮する上軍のみは無傷で、戦場に踏み止まっていた。

      楚の荘王は属国の「唐」の恵侯を説得して従軍させ、潘党に兵車

     四十乗を授けて唐軍に配属させて左翼軍となした。

      そしてこの左翼軍をして、晋の上軍を追撃させた。

      晋の上軍の副将・郤錡は、徹底抗戦を唱えたが、随会は、

      「楚の師 当に壮(勇壮)なり。

      若し吾に集まらば、わが師必ず尽きん。

      如かず、収めてこれを去らんには。

      (=撤収するに越したことは無い。)

      謗りを分かち民を活かさんこと、また可ならずや」、と決断して」、

      (=非難を受けても、兵士を活かして帰すことの方が大切だ。)

     自らの上軍を殿軍として撤退し、晋軍の全滅を防いだ。

      日が暮れて、楚軍は邲に陣を設営したが、晋の敗残部隊は陣営を

     設営できず、夜中に黄河を渡った。

                       
                       「春秋左氏伝 宣公十二年」


      ☷ 拾遺・弥縫

        邲の戦いの勝利により、楚の荘王は会盟を主催し、斉の桓公、

       晋の文公に続いて春秋の第三代覇者と認められた。

        鄭救援軍の総指揮官である荀林父は、敗戦の責任を取って

       景公に死を賜るよう願った。

        景公がその願いを容れようとすると、士貞子(士渥濁。士会の

       祖父)が反対して次のように進言した。

        「かつて我が文公が城濮の戦いで楚を撃ち破った時、楚王は敗軍

       の将となった子玉の責任を問うて彼を自裁させましたが、晋では戦い

       に勝っても楚の猛将を討ち漏らして憂いておられた文公は、その事を

       知って大喜びされたものです。

        今 楚に敗れた上に総指揮官まで死に追いやったのでは、みすみす

       敵の思う壺となりましょう」と。

        かくして荀林父は処罰を免れた。

                       「史記 晋世家」



        

       



      


      

      
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    テーマ : 中国古典・名言
    ジャンル : 学問・文化・芸術

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    tyouseimaru 河野長生

    Author:tyouseimaru 河野長生
    出身地は四国八十八か所参りの発心の阿波、大阪を終の棲家とする。
    歴史好きで、城郭・神社仏閣・歴史遺跡巡りが趣味となる。
    歴史小説や時代小説を好み、往年の著名な時代小説の類は概ね完読と、自負している。

    自薦
    自著「中国通史で辿る名言・故事探訪」の 上・中・下の3巻を、 近い内に「電子書籍」での出版を予定しています。 今年一年間は、さらに工夫を加えるなどして、補記訂正などの校正を第一義としています。       
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