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    中国通史で辿る名言・故事探訪(春秋五大会戦 その4)

     「鞍の戦い」

                        春秋時代

      紀元前589年、晋(26代景公)が魯・衛・曹の連合軍を率いて、

     斉軍を鞍の地に破る。これを「鞍の戦い」といい、春秋五大会戦・

     その四に数えられる。

      楚(24代共王)と晋が互いに相手を凌駕することが出来ず、覇権を

     確立することが出来ずにいた間に、中原の東端にある斉の23代頃公

     が、嘗ての勢いを取り戻しつつあった。

      1 「前哨戦」

      前589年春、斉の頃公は自ら軍を率いて、魯(22代成公)の北境に

     攻め込んだ。

      だがその年の夏四月 斉の隙を衝いて魯を救援するため衛の穆公

     は、上卿・孫良夫らに命じて、斉の地へ侵入を目論んで派兵した。

      ところが斉軍は、魯軍と決着を付けての帰還の途次 衛の領土の

     新築においてこの衛軍と遭遇し、衛軍を敗走させた。

      この時 石稷(せきしょく)は孫良夫に謂った、

      「子(し。貴方)は一国の正卿です。子を失えば恥になります。

      子が将士を率いて退却するなら、吾はここに踏み止まります」と。

      さらに軍中に布告して回った、

      「もうすぐ援軍が来るぞ」と。

      衛の軍中の様子を察知して、斉軍は進軍を停止して鞫居(きくきょ)

     に宿営した。

      この後 新築の仲叔于奚(うけい)が孫良夫の救援に駆けつけて来た

     ので、孫良夫らは辛うじて脱出することが出来た。

      斉に敗れて衛の国都に戻った孫良夫は、城門には入らず、その足で

     直に晋へ援軍を請いに行った。

      同じ頃 斉に敗れた魯も、臧孫(ぞうそん)宣叔を使者に立てて晋へ

     援軍を要請に来ていた。

      彼らは共に、晋の実力者である郤克(献子)に口添えを依頼した。

      晋侯(景公)は七百乗の出動を許可したが、郤克は、

      「この数は城濮の戦いの折の兵車数であり、先君(文公)の明察、

     先大夫(先軫や弧偃ら)の敏捷があらばこそ勝てたものです。

      我は先大夫らに比べれば、その召使いにも及びません。

      八百乗をお願いします」と懇願して許された。

      かくして中軍の将は郤克、その佐に士燮(ししょう。范文子とも)、

     下軍の将に欒書(らんしょ)、司馬に韓厥が任ぜられた。

      魯は季文子(季孫行父)を将として派遣した。

     2 「序盤戦」

      夏六月壬申(九 )の日、晋・魯・衛の連合軍は、斉の地の

     靡笄(びけい)山に駒を進めた。

      翌日の朝、両軍は鞍の地に対陣した。

      斉の高固が突然、晋の陣地に兵車を乗入れ晋兵に大石を投げつけ、

     倒れた兵を捕えて車に引き上げ、さらに付近にあった桑の木を根元から

     引き抜いて車に括り付けて悠々と自軍の陣地に馳せ戻り、連合軍の

     ど肝を抜いた。

     3 決戦

      斉公の指揮車には邴夏(へいか)が御し、逢丑父(ほうちゅうほ)が

     車右を務めた。

      その一方では、晋の郤克の指揮車では解張が御し、鄭丘緩が車右

     を務めた。

      斉公は、

      「余、姑(しばら)く此れを殲滅して朝食せん」と言って、馬に鎧も着せず

     に鞭をくれた。

      かくして戦端が開かれるや、晋の郤克は矢傷を受け、その流れる血が

     足の履を浸した。

      だが郤克は気力を振り絞って、鼓を打ち続けた。

      師の耳目は吾が鼓旗にあり、進退これに従う。

      (=軍の象徴は軍鼓と旌旗にあり、攻撃するも退却するも

       それ次第である。)

        ※ 旌旗とは、大将軍旗をいう。

      戦乱が続く中、郤克の気力もようやく衰えようとした。そして弱音を

     吐いて言う、

      「吾、病めり」と。

      だが御車の解張が励ました。

      「戦闘が始まってから、私は肘や手に矢を受け、それをへし折って馬

     を御しておりますぞ。兵車の左輪は私の血で真っ赤に染まっております

     が、何条以って病めりと言えましょうや。

      御大将、しっかり耐えて下さい」と。

      また車右の鄭丘緩は、

      「戦闘が始まってから、急坂にさしかかる度に私は車を降りて、後押し

     してまいりましたが、貴方はその事にお気づきではなかった。

      それも道理で、そんな酷い状態だったのですね」と、慰撫した。

      ここで解張は更に力強く励ました。

      「師(軍旅)の耳目は、吾が鼓旗に在り。進退これに従う。

      御大将が一人、この指揮車で頑張っておられれば勝利は我がもの、

     それなのに、何ぞそれ病めるからと言って君の大事を敗れましょうや。

      甲(よろい)を着け武器を手にしたからには、死はもとより覚悟のはず。

      病むといえども未だ死ぬ事はありません。

      確り指揮を執ってください」と言って、手綱を左手だけで持ち、右手で

     郤克から撥(ばち)を受け取り、烈しく鼓を叩いた。

      ところが抑えが十分に利かず、その為 馬は奔走し、全軍は一丸と

     なってその後に続いた。

      それまで優勢に戦いを進めていた斉軍は、晋軍のこの思わぬ猛攻に

     堪らず敗走し、攻守が逆転してしまった。

     4 韓厥と頃公の奇跡の運命

      この追撃戦で司馬の韓厥は、斉公の指揮車の後を追った。

      この時、韓厥は車の左にある指揮官席に立たず、自ら御車となり中央

     で手綱を握っていた。

      と謂うのも、開戦前夜 父が夢枕に現れ、

      「明日は、兵車の左右に立ってはならぬぞ」、とのお告げがあった

     からであった。

      追われる斉公の御車・邴夏が言った、

      「あの御車を狙うべし。君子ですぞ」と。

      しかし斉公は、

      「いや、君子と知って矢を射かけるのは如何にも失礼である」、と

     言って、車左を射倒し、続いて車右も射倒した。

      左右の勇士を失った韓厥の兵車に、兵車を失った晋の大夫の

     綦母張(きむちょう)が追い縋って車右の席に乗り移ろうとした。

      しかし韓厥は肘で押しのけた。ところが更に車右の席に着こうと

     するも、やはり肘で押しのけ、自分の後ろの余地にしか乗せなかった。

      そして、ずり落ちそうになった左右の士の遺骸を落ちないように引き

     戻した。

      そのわずかの隙に、追われる斉公は車右の逢丑父と席を入れ替えた。

      やがて華泉に近づいたところで、指揮車の副馬が木に引っかかって、

     動きが取れなくなった。

      逢丑父は昨夜、指揮車の中で寝た時、蛇に咬まれて負傷していたので、

     指揮車を後から押すことも出来なかったので、とうとう韓厥に追い

     つかれてしまった。

      韓厥は斉公の馬前に進み寄り、その手綱を取り、再拝稽首(頓首)

     し、また持参した盃に玉を添え斉公に捧げて、

      「我が君の出兵の目的は、衛・魯の救援に在って、斉の地に深入り

     してはならん、と。

      しかし軍を進めるうちに、不幸にして貴軍に出くわしました。

      逃げ隠れもならず、故意に避けるのは主君の名を辱め且つ

     君に対しても無礼かと存じあげ、敢えて戈を交えさせて戴きました。

      失礼の段は御許しいただき、この私がお供いたしますのでお越し

     いただきたい」と、言上した。

      この時、斉公に成りすましていた逢丑父は何食わぬ顔で、

      「華泉に行って水を飲んで来い」と、傍らの斉公に命じた。

      車を降りた斉公は、鄭周父が御を務め、宛茷(えんはい)が車右を

     務める副官車に乗り移って難を逃れた。

      その後も斉軍は追撃を受けて、華不注山を三周して、ようやく逃げ

     帰った。

     君に代わりて患に任ずる者あることなからん

       (=我が君に代わって災難を引き受ける者、即ち主君の身代わり

        となる者はいなくなるだろう。)

       斉君の身代わりとなった逢丑父は、韓厥により郤克の下に連行

      された。

       郤克は彼を殺戮しようとしたが、逢丑父は大声で叫んで言った、

       「今より後 その君に代わりて患に任ずる者(君侯の身代わりとなる

      者)あることなからんや。

       ここに一あるに、当に戮することを為さんとするか」と。

       この言葉に郤克は胸を打たれた。

       「人 死を以ってその君を免れしむるを憚らざるに、

       (=勇士が吾が身を忘れてまで敢えてその主君を助けようとした

        のに)

        吾 これを戮するは不祥なり。これを赦して以って君に仕える者を

       勧めん」と言って、処刑を取り止めた。

        この戦いで晋は斉の国都・臨淄(りんし)近くまで攻め込んだが、結局

       魯と衛の仲裁で和平協定を結ぶことになった。

                      「春秋左氏伝 成公二年」


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    テーマ : 戦記
    ジャンル : 学問・文化・芸術

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     河野長生   tyouseimaru

    Author: 河野長生 tyouseimaru
    出身地は四国八十八か所参りの発心の阿波、大阪を終の棲家とする。
    歴史好きで、城郭・神社仏閣・歴史遺跡巡りが趣味となる。
    歴史小説や時代小説を好み、往年の著名な時代小説の類は概ね完読と、自負している。

    自薦
    自著「中国通史で辿る名言・故事探訪」の 上・中・下の3巻を、 近い内に「電子書籍」での出版を予定しています。 今年一年間は、さらに工夫を加えるなどして、補記訂正などの校正を第一義としています。       
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