
中国通史で辿る名言・故事探訪(文事あるものは必ず武備あり)
「文亊あるものは必ず武備あり」
◇ 東周王朝 ◇
平和的な諸侯会盟であっても、緊急事態に備えて軍備を怠ってな
ならない。
》 夾谷の会 《
孔子は、魯の定公㉖の下で大司寇に抜擢されて、政局の中枢に
いた。
☞ 大司寇(だいしこう)とは、警察・司法関係の長官職。
魯・定公十年(前500年)、斉と魯の間に二国間の会盟がもたれる
ことになったが、これは孔子の下、隆盛に赴こうとする魯の勢いを
削ごうとする斉の謀略であった。
定公は招きに応じて、無防備のまま会盟に出立しようとした。
この会盟の魯の折衝役を仰せつかった孔子は、進言してた。
「文亊あるものは、必ず武備あり。
請う左右の司馬(軍旅)を具え以て従わんことを」と。
則ち平和的な外交交渉と雖も油断すべきではなく、非常事態に
備えて身近に兵馬を従えておくべきことを請うて王を諌めたのである。
定公は孔子の諌めに従って、軍旅を引き連れて夾谷の会場に
向かった。
会盟では、斉の景公㉖の恫喝的言辞によって危機に直面する定公を、
孔子は再三に亘り援け、逆に景公を道義的窮地に追い込むことも
あった。
そして会盟の結果、嘗ては魯を追われて斉に亡命してきた陽虎が、
魯から奪い取った鄆(うん)、讙(かん)、亀陰の領地を斉に返還させる
ことに成功する。
斉の景公は国都に帰ってから、会盟を差配した主だった臣下の不甲斐
なさに大いに嘆き、
「魯は君子の道を以て、その君を助く。
而るに子(なんじ)は、独り夷狄の道
を以て寡人に教う」と。
「史記 孔子世家」・「春秋左氏伝 定公十年」
★ 「君子過ち有らば謝するに質(ち)を以てし、
小人過ち有らば謝するに文を以てす。」
自分が間違ったと悟ったら、人は謝罪する。しかしどのように謝罪
するかは、君子と小人では差がある。
君子は質朴誠実で飾り気の無い内容の伴った謝罪をするが、小人
は形式を飾った誠意の無い謝罪をする。
夾谷の会盟では、斉は「礼の定め」に反する行為を重ね、孔子に
指摘され度々叱責された。
魯公に顔向けならぬ仕儀と為り、景公はその臣下に善後策を相談
した。
その臣下曰く、
「君子は過ち有らば謝するに質を以てし、小人は過ち有らば謝する
に文を以てす」と。
かくして景公は、会盟の非礼を詫び、陽虎の置き土産であった魯の
旧領を返還した。
「史記 孔子世家」
☆ 「論語 衛霊公篇」
子曰く、
君子は諸(これ)を己に求め、小人は諸を人に求む。
君子は何事も能くしないことがあれば、責めは自分に求めて省みる
が、小人は思いが達せられなければ、その責めを他人に求めようと
する。
★ 孔子にまつわる英雄譚の真偽
後の世になったから、聖人君主と仰がれる孔子には、実像以上に
虚飾され、超越した能力や偉才が付与されるようになった。
就中 孔子を文武両道に超越するとした英雄譚がある。
前漢の初期、秦代の焚書坑儒を経て、ようやく挟書の律も解かれ、
儒教は朝廷においても認知されるようになり、政治の場においても
活路を見出そうとしていた。
しかしそれには、法治国家を支える為の単なる仁義礼楽の儒教を
為政上、即ち実際の政治の場においても、儒教の果たす実効性を
アピールする必要にせがまれた。
その為には無い事実を有るかのごとく作り上げても孔子の実像を
より偉大に、それも文武両道に超越した人にまで祭り上げる必要に
せがまれた。
そしていつしか、虚実ないまぜの風評が流布され、延々たる時の流れ
の中で、虚実がさも事実ならんとして伝わってきたのである。
この斉との夾谷の会盟における孔子の武勇譚や、後の孔子の
三桓制圧などは、今や 漢朝以後の儒者による、国家権力への迎合に
よって成った虚飾英雄譚であると見られるようになった。
◇ 東周王朝 ◇
平和的な諸侯会盟であっても、緊急事態に備えて軍備を怠ってな
ならない。
》 夾谷の会 《
孔子は、魯の定公㉖の下で大司寇に抜擢されて、政局の中枢に
いた。
☞ 大司寇(だいしこう)とは、警察・司法関係の長官職。
魯・定公十年(前500年)、斉と魯の間に二国間の会盟がもたれる
ことになったが、これは孔子の下、隆盛に赴こうとする魯の勢いを
削ごうとする斉の謀略であった。
定公は招きに応じて、無防備のまま会盟に出立しようとした。
この会盟の魯の折衝役を仰せつかった孔子は、進言してた。
「文亊あるものは、必ず武備あり。
請う左右の司馬(軍旅)を具え以て従わんことを」と。
則ち平和的な外交交渉と雖も油断すべきではなく、非常事態に
備えて身近に兵馬を従えておくべきことを請うて王を諌めたのである。
定公は孔子の諌めに従って、軍旅を引き連れて夾谷の会場に
向かった。
会盟では、斉の景公㉖の恫喝的言辞によって危機に直面する定公を、
孔子は再三に亘り援け、逆に景公を道義的窮地に追い込むことも
あった。
そして会盟の結果、嘗ては魯を追われて斉に亡命してきた陽虎が、
魯から奪い取った鄆(うん)、讙(かん)、亀陰の領地を斉に返還させる
ことに成功する。
斉の景公は国都に帰ってから、会盟を差配した主だった臣下の不甲斐
なさに大いに嘆き、
「魯は君子の道を以て、その君を助く。
而るに子(なんじ)は、独り夷狄の道
を以て寡人に教う」と。
「史記 孔子世家」・「春秋左氏伝 定公十年」
★ 「君子過ち有らば謝するに質(ち)を以てし、
小人過ち有らば謝するに文を以てす。」
自分が間違ったと悟ったら、人は謝罪する。しかしどのように謝罪
するかは、君子と小人では差がある。
君子は質朴誠実で飾り気の無い内容の伴った謝罪をするが、小人
は形式を飾った誠意の無い謝罪をする。
夾谷の会盟では、斉は「礼の定め」に反する行為を重ね、孔子に
指摘され度々叱責された。
魯公に顔向けならぬ仕儀と為り、景公はその臣下に善後策を相談
した。
その臣下曰く、
「君子は過ち有らば謝するに質を以てし、小人は過ち有らば謝する
に文を以てす」と。
かくして景公は、会盟の非礼を詫び、陽虎の置き土産であった魯の
旧領を返還した。
「史記 孔子世家」
☆ 「論語 衛霊公篇」
子曰く、
君子は諸(これ)を己に求め、小人は諸を人に求む。
君子は何事も能くしないことがあれば、責めは自分に求めて省みる
が、小人は思いが達せられなければ、その責めを他人に求めようと
する。
★ 孔子にまつわる英雄譚の真偽
後の世になったから、聖人君主と仰がれる孔子には、実像以上に
虚飾され、超越した能力や偉才が付与されるようになった。
就中 孔子を文武両道に超越するとした英雄譚がある。
前漢の初期、秦代の焚書坑儒を経て、ようやく挟書の律も解かれ、
儒教は朝廷においても認知されるようになり、政治の場においても
活路を見出そうとしていた。
しかしそれには、法治国家を支える為の単なる仁義礼楽の儒教を
為政上、即ち実際の政治の場においても、儒教の果たす実効性を
アピールする必要にせがまれた。
その為には無い事実を有るかのごとく作り上げても孔子の実像を
より偉大に、それも文武両道に超越した人にまで祭り上げる必要に
せがまれた。
そしていつしか、虚実ないまぜの風評が流布され、延々たる時の流れ
の中で、虚実がさも事実ならんとして伝わってきたのである。
この斉との夾谷の会盟における孔子の武勇譚や、後の孔子の
三桓制圧などは、今や 漢朝以後の儒者による、国家権力への迎合に
よって成った虚飾英雄譚であると見られるようになった。