中国通史で辿る名言・故事探訪
「秦の名将・王翦」
戦国時代
王翦(せん)の父は王賁(ふん)、祖父は王離。
王翦は、秦の天下統一に軍事面で大きく貢献した。
秦王政十一年(前236年)に初めて史書に登場する。
この年 同僚の桓齮(かんぎ)、楊端和(たんわ)らと魏の鄴(ぎょう)
を攻めて、先ずその周辺の九城を攻略した。
桓齮らは其の地に留まったが、王翦は先に軍を進めた。
王翦は其の巧みな用兵と共に策略を駆使して、閼与を落とし鄴城
陥落させた。
その功があった後は、殊に秦王に重用されることになる。
秦が天下統一の事業に着手するようになると、王翦は其の巧みな
用兵で息子の王賁とともに西に東に転戦して、韓・魏・趙を滅ぼし、
燕王を敗走させるなどして秦の天下統一への基礎固めをした。
それから後になるが、秦王政二十三年(前224年) 対楚戦略では
既に老境に達した王翦は総指揮を外され若い将軍の李信が起用
された。
と言うのも対戦前に李信は秦王から、
「吾 荊(荊蛮。楚を見下した呼び方)を攻取せんと欲す。
将軍に於いて度(はか)るに、幾ばくの人を用うれば足らんか」と、
問われた。
即ち楚の平定には動員する兵力は如何ほど要るかと、問われた
のである。
李信は自信満々と、
「二十万人を用うるに過ぎず」と。
その一方では王翦は、
「六十万人にあらずんば不可なり」と、復命した。
秦王は、王翦老いたりとして退け、李信と蒙恬(もうてん)を二十万
兵団の将として、荊(楚)を討たせることにした。
王翦はその後 病と称して引き籠り,一方では李信らは意気揚々として
出陣した。
彼等は緒戦こそ華々しく勝利を挙げることが出来たが、楚軍は秦軍の
僅かの隙を逃さず急襲し、不意を衝かれた秦軍は総崩れとなって大敗を
喫してしまった。
秦王は直ちに王翦の下に駆け付け、陳謝して改めて条件通りでの
出馬を要請した。
王翦は、出陣式の時 秦王に早々と戦勝の暁には「田宅園地」を
戴きたいと懇請した。
秦王がその理由を問うと、王翦は、
「今の内に、戴けるものは戴いておきたい」と。
彼の心情は、王翦はこれから六十万という秦のほぼ全勢力の兵を
引き連れて祖国を後にするので、猜疑心の強い秦王を安心させる
ために必要以上に己の物欲を誇大に表現して、反逆の意志は皆目なし
と訴えたのである。
『対楚攻略戦』
かくして楚の攻略に取り掛かったが、王翦は楚軍と対峙するばかり
で、守りを固めて攻勢に出ず、全軍をゆっくり休息させてふんだんに
糧食を給した。
すると兵士たちは、力が有り余って運動競技に熱を出し始めた。
この秦軍の動静を見極めた楚軍は、いったん前線から撤収しようと
反転し行軍を開始した。
秦軍は待ちに待った楚軍の引き潮を十分に見届けてから、王翦は
一気に全軍を繰り出して楚軍に襲い掛かり圧倒して敗走させた。
そして尚も一気呵成に楚の地を平定していった。
その対楚戦中も王翦はしばしば秦王の元へ使いを遣り、大軍を動員
して指揮している己が秦王に疑念を持たれないように画策して、度々の
軍功に対する報奨を要求したり、最上の宰邑をおねだりした。
そして王翦は遂に楚王負芻(ふすう)を捕虜にして凱旋した。
「史記 白起王翦列伝」
※ 前漢の武帝の時代に李信の子孫で李広という弓の名人であり
且つ名将が出るが、その李広の子が悲劇のヒーローとなる李陵
である。
戦国時代
王翦(せん)の父は王賁(ふん)、祖父は王離。
王翦は、秦の天下統一に軍事面で大きく貢献した。
秦王政十一年(前236年)に初めて史書に登場する。
この年 同僚の桓齮(かんぎ)、楊端和(たんわ)らと魏の鄴(ぎょう)
を攻めて、先ずその周辺の九城を攻略した。
桓齮らは其の地に留まったが、王翦は先に軍を進めた。
王翦は其の巧みな用兵と共に策略を駆使して、閼与を落とし鄴城
陥落させた。
その功があった後は、殊に秦王に重用されることになる。
秦が天下統一の事業に着手するようになると、王翦は其の巧みな
用兵で息子の王賁とともに西に東に転戦して、韓・魏・趙を滅ぼし、
燕王を敗走させるなどして秦の天下統一への基礎固めをした。
それから後になるが、秦王政二十三年(前224年) 対楚戦略では
既に老境に達した王翦は総指揮を外され若い将軍の李信が起用
された。
と言うのも対戦前に李信は秦王から、
「吾 荊(荊蛮。楚を見下した呼び方)を攻取せんと欲す。
将軍に於いて度(はか)るに、幾ばくの人を用うれば足らんか」と、
問われた。
即ち楚の平定には動員する兵力は如何ほど要るかと、問われた
のである。
李信は自信満々と、
「二十万人を用うるに過ぎず」と。
その一方では王翦は、
「六十万人にあらずんば不可なり」と、復命した。
秦王は、王翦老いたりとして退け、李信と蒙恬(もうてん)を二十万
兵団の将として、荊(楚)を討たせることにした。
王翦はその後 病と称して引き籠り,一方では李信らは意気揚々として
出陣した。
彼等は緒戦こそ華々しく勝利を挙げることが出来たが、楚軍は秦軍の
僅かの隙を逃さず急襲し、不意を衝かれた秦軍は総崩れとなって大敗を
喫してしまった。
秦王は直ちに王翦の下に駆け付け、陳謝して改めて条件通りでの
出馬を要請した。
王翦は、出陣式の時 秦王に早々と戦勝の暁には「田宅園地」を
戴きたいと懇請した。
秦王がその理由を問うと、王翦は、
「今の内に、戴けるものは戴いておきたい」と。
彼の心情は、王翦はこれから六十万という秦のほぼ全勢力の兵を
引き連れて祖国を後にするので、猜疑心の強い秦王を安心させる
ために必要以上に己の物欲を誇大に表現して、反逆の意志は皆目なし
と訴えたのである。
『対楚攻略戦』
かくして楚の攻略に取り掛かったが、王翦は楚軍と対峙するばかり
で、守りを固めて攻勢に出ず、全軍をゆっくり休息させてふんだんに
糧食を給した。
すると兵士たちは、力が有り余って運動競技に熱を出し始めた。
この秦軍の動静を見極めた楚軍は、いったん前線から撤収しようと
反転し行軍を開始した。
秦軍は待ちに待った楚軍の引き潮を十分に見届けてから、王翦は
一気に全軍を繰り出して楚軍に襲い掛かり圧倒して敗走させた。
そして尚も一気呵成に楚の地を平定していった。
その対楚戦中も王翦はしばしば秦王の元へ使いを遣り、大軍を動員
して指揮している己が秦王に疑念を持たれないように画策して、度々の
軍功に対する報奨を要求したり、最上の宰邑をおねだりした。
そして王翦は遂に楚王負芻(ふすう)を捕虜にして凱旋した。
「史記 白起王翦列伝」
※ 前漢の武帝の時代に李信の子孫で李広という弓の名人であり
且つ名将が出るが、その李広の子が悲劇のヒーローとなる李陵
である。