中国通史で辿る名言・故事探訪(五大姓の漢人すべて殺すべし)
「五大姓の漢人すべて殺すべし」
元代
元の時代において、漢民族で最も多い姓は、張・王・劉・李・趙で
あった。
これを漢民族の五大姓というが、元末における生粋のモンゴル人
権勢家の伯顔(バヤン)は、見出しの如く驚天動地の提案した。
紀元1332年 明宗(9代)の次子・イリンジバルが即位した。
これが寧宗(11代)であるが、在位五十日余で崩じてしまった。
1332年 皇帝文宗(8代及び重祚して10代)は、自分の子を差し
置いて明宗の長子であるドゴンテルム(後の恵宗)に皇位を伝える
遺詔を遺していたが、権臣でキングメーカーと謂われるエンテルムは
ドゴンテムルの弟・イリンジバルを帝位に就けたが、これが11代寧宗
である。
ところで、エンテルムは寧宗の後を追うようにして、あっけなく死んで
しまった。
ここに至り、明宗の長子・ドゴンテムルが即位した。
これが大元王朝の最後の皇帝となる12代恵宗である。
恵宗は即位前までは、広西地方に冤罪で流されていたが、北京入り
する際、敵対勢力による反撃の危険性があったが、汴梁(べんりょう)
の伯顔(バヤン)が兵を率いて護衛した。その功により、」今度は伯顔
が新しい権力者となった。
エンテムルは漢文化を尊重する親漢派であったが、伯顔はモンゴル
の国粋派であった。為に科挙は直ちに停止された。
この伯顔、生粋のモンゴル主義者であったが、性格的にも常人を逸す
る過激な言動がしばしばあった。
その特筆されるべき言動として、張・王・劉・李・趙の
「五大姓の漢人を総べて滅ぼすべし」、と提案した。
この五大姓で全中国の人口の半数以上を占めるといわれるが、当に
精神に異常を来した発言としか言いようが無かったようである。
さすがにこの暴論は取り上げられることは無かった。
元代
元の時代において、漢民族で最も多い姓は、張・王・劉・李・趙で
あった。
これを漢民族の五大姓というが、元末における生粋のモンゴル人
権勢家の伯顔(バヤン)は、見出しの如く驚天動地の提案した。
紀元1332年 明宗(9代)の次子・イリンジバルが即位した。
これが寧宗(11代)であるが、在位五十日余で崩じてしまった。
1332年 皇帝文宗(8代及び重祚して10代)は、自分の子を差し
置いて明宗の長子であるドゴンテルム(後の恵宗)に皇位を伝える
遺詔を遺していたが、権臣でキングメーカーと謂われるエンテルムは
ドゴンテムルの弟・イリンジバルを帝位に就けたが、これが11代寧宗
である。
ところで、エンテルムは寧宗の後を追うようにして、あっけなく死んで
しまった。
ここに至り、明宗の長子・ドゴンテムルが即位した。
これが大元王朝の最後の皇帝となる12代恵宗である。
恵宗は即位前までは、広西地方に冤罪で流されていたが、北京入り
する際、敵対勢力による反撃の危険性があったが、汴梁(べんりょう)
の伯顔(バヤン)が兵を率いて護衛した。その功により、」今度は伯顔
が新しい権力者となった。
エンテムルは漢文化を尊重する親漢派であったが、伯顔はモンゴル
の国粋派であった。為に科挙は直ちに停止された。
この伯顔、生粋のモンゴル主義者であったが、性格的にも常人を逸す
る過激な言動がしばしばあった。
その特筆されるべき言動として、張・王・劉・李・趙の
「五大姓の漢人を総べて滅ぼすべし」、と提案した。
この五大姓で全中国の人口の半数以上を占めるといわれるが、当に
精神に異常を来した発言としか言いようが無かったようである。
さすがにこの暴論は取り上げられることは無かった。
☷ 拾遺・弥縫
「張三李四」
古来 中国では、「張三李四」といって、張と李の姓は至極
ありふれた姓とされてきた。
張家の三男、李家の四男というほどの意である。
「張三李四」
古来 中国では、「張三李四」といって、張と李の姓は至極
ありふれた姓とされてきた。
張家の三男、李家の四男というほどの意である。